「幸福はどこにある」?
2003年7月9日 読書「幸福はどこにある」byフランソワ・ルロール を読む。
精神科医へクトールが「ほんとうのしあわせとは何か?」を探して旅に出たお話。
へクトールは、はっきりした不幸の原因もないのに不幸だと感じて精神科を訪れる人が多すぎる、と感じ、自分は患者を幸福にしてやれないと悩んでいた。
そこで旅に出る。
旅先で、ものがなくても幸福そうに笑っている人たち、ものに満たされているのに不幸そうな顔をしている人たちを見て、幸福の教訓(レッスン)を発見し手帳に書き付けていく。
レッスンは1から20まで。
レッスン1・・・幸福をだいなしにするよい方法は比較することである。
レッスン7・・・まちがいは幸福を目的だと思うことである。
レッスン20・・・人はものの見方で幸福にも不幸にもなる。
ヘクトールは旅の途中で出会った教授との話で、幸福を測る三つの「格差」についても考える。
1、現在の自分の生活とこうありたいと思っている生活との格差
2、現在の生活と過去の一番よかったときの生活との格差
3、他人が持っているものと自分が持っているものとの格差
この三つの「格差」の平均値が小さければ小さいほど幸福であると教授は言う。
☆☆☆☆☆
「だいありー」を始めて、「しあわせ」について考えていた。
書き始めた4月のころ、客観的には「幸せ」だといえる状況にあるはずなのに、幸せだと感じることができなくてウツ状態だった。
書くことで毎日の生活を見つめ、自分を見つめ、思いを吐き出し、今は「自分に与えられているしあわせにしっかりと感謝」しなくちゃなあ・・・と思えるようになった。
三つの格差について。
現在の私はまあまあ格差が小さいといえるかな。
10年前、子育てでノイローゼ気味で心療内科でカウンセリングしてた。
5年前、ダンナは浮気して家に帰ってこず離婚寸前。2年前、オトコとのことでアタシは心身ともにボロボロだった。
半年前、仕事やいろんなことでウツ状態でもうこの先生きてても同じかななんて思ったこともあった。
そんなことから思うと、今はお金はないけど穏やかな生活とコドモたちの笑顔がある、それだけで私は幸せなのだ、と思える。
一度失いかけたからこそ戻ってきた今は大切にしていきたいと気づいた、とでも言うべきか。
「幸福」とは結局は「ものの見方」なのだろう。
他人が幸福の基準になるのではなく「自分」。
だから、人と比べるものでもないし、人にゆだねるものでもない。そしてただ待っているだけでもだめ。
「しあわせになる」のでもなく(幸福は目的ではない)、やっぱり「自分のものの見方によってしあわせな状況をしっかりとしあわせだと感じられるかどうか」なのかなと思う。
精神科医へクトールが「ほんとうのしあわせとは何か?」を探して旅に出たお話。
へクトールは、はっきりした不幸の原因もないのに不幸だと感じて精神科を訪れる人が多すぎる、と感じ、自分は患者を幸福にしてやれないと悩んでいた。
そこで旅に出る。
旅先で、ものがなくても幸福そうに笑っている人たち、ものに満たされているのに不幸そうな顔をしている人たちを見て、幸福の教訓(レッスン)を発見し手帳に書き付けていく。
レッスンは1から20まで。
レッスン1・・・幸福をだいなしにするよい方法は比較することである。
レッスン7・・・まちがいは幸福を目的だと思うことである。
レッスン20・・・人はものの見方で幸福にも不幸にもなる。
ヘクトールは旅の途中で出会った教授との話で、幸福を測る三つの「格差」についても考える。
1、現在の自分の生活とこうありたいと思っている生活との格差
2、現在の生活と過去の一番よかったときの生活との格差
3、他人が持っているものと自分が持っているものとの格差
この三つの「格差」の平均値が小さければ小さいほど幸福であると教授は言う。
☆☆☆☆☆
「だいありー」を始めて、「しあわせ」について考えていた。
書き始めた4月のころ、客観的には「幸せ」だといえる状況にあるはずなのに、幸せだと感じることができなくてウツ状態だった。
書くことで毎日の生活を見つめ、自分を見つめ、思いを吐き出し、今は「自分に与えられているしあわせにしっかりと感謝」しなくちゃなあ・・・と思えるようになった。
三つの格差について。
現在の私はまあまあ格差が小さいといえるかな。
10年前、子育てでノイローゼ気味で心療内科でカウンセリングしてた。
5年前、ダンナは浮気して家に帰ってこず離婚寸前。2年前、オトコとのことでアタシは心身ともにボロボロだった。
半年前、仕事やいろんなことでウツ状態でもうこの先生きてても同じかななんて思ったこともあった。
そんなことから思うと、今はお金はないけど穏やかな生活とコドモたちの笑顔がある、それだけで私は幸せなのだ、と思える。
一度失いかけたからこそ戻ってきた今は大切にしていきたいと気づいた、とでも言うべきか。
「幸福」とは結局は「ものの見方」なのだろう。
他人が幸福の基準になるのではなく「自分」。
だから、人と比べるものでもないし、人にゆだねるものでもない。そしてただ待っているだけでもだめ。
「しあわせになる」のでもなく(幸福は目的ではない)、やっぱり「自分のものの見方によってしあわせな状況をしっかりとしあわせだと感じられるかどうか」なのかなと思う。
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