夏休みも中盤。
スーパーには盆棚飾りセットが並んでいる。

子供の頃、お盆近くになると毎年親戚の家に連れられていった。
ふだんはサマーセーターやゴムのスカートなどの格好の母がちゃんとワンピースを着てレースのハンカチなどを持ち、日傘をさして出かけるのである。
いつもと違う母のいでたちになんとなく感じたうれしさと気恥ずかしさも思い出す。

私たち姉妹も、そのときのために毎年ワンピースを新調してもらった。
天地真理や桜田淳子が人気があったころなので、テニスファッションのような真っ白なワンピースにあこがれた。
襟のところにワンポイントでテニスラケットが刺繍してあったワンピースがお気に入りだったのも覚えている。

自分が小学生のとき普段着として何を着ていたか思いだせない。
が、夏のお出かけ以外には着る機会のないそんなパリッとしたワンピースをわざわざ毎年新調したという母の感覚もよくわからない。
私だったらそんな一度しか着ないもののために高いお金を出すことはムダだと思うから。
70近い今になっても「お金は使うときには使わなくちゃ」という、どちらかというと世間体を重んじる母のこだわりだったのかもしれない。

そのお出かけのための準備はとてもわくわくして、いざ出かけるときはとてもうれしく晴れがましい気持ちだった。
日傘を差した母と真っ白いワンピースと帽子の姉妹。
そのときの白っぽい暑い夏の日差しと汗ばむ肌をふいてくれた母のレースのハンカチの香りまでもが思い出される。
そのときだけはいいとこのマダムとかわいらしいお嬢様たちのような気持ちになっていた自分たちを思うと、なんとなく気恥ずかしくほほえましくなる。
それは「ハレ」の舞台だった。
お出かけの服装をさせられた私はやっぱり気持ちもそれなりのお嬢様になり、親戚の家でもそれらしくふるまったと思う。

今私は自分のコドモたちにそういう経験をさせているか。答えはNO。
「母のいつもと違うきちんとあらたまった姿」を見せているか。これもNO。
今どきは物も情報もあふれかえり「ハレ」と「ケ」の境はなく、コドモたちは一年中盆や正月みたいなものだ。

出かけるときは車で行ってしまうので暑い中汗を拭きながら歩くことも電車やバスを待つということもない。
私もそうだが、コドモたちだって「このときは特別」という、気持ちまでもが引き締まるようなあらたまった服装をすることは冠婚葬祭以外にはない。
その冠婚葬祭ですらほとんどない。

・・・考えてみればコドモを連れて自分の実家に行くことはあっても、うち(ダンナと私とコドモたちという家族の単位)にはあらたまった親戚づきあいなどないのだ。
「お盆」や「お正月」のときに、幼かった自分が感じたような「特別のもの」を感じることもコドモたちにはないのだろうと思う。
大人がそういう「ハレ」の舞台を演出してやらなければコドモたちが経験することなどないからだ。

・・・・だからどうした。というと「だからこうだ」というわけでもないのだが。
暑ければすぐエアコンを入れめんどうなつきあいは極力避け、すべてが効率と合理性を重んじるような生活になり・・・昭和40年代の生活を思うとき、遠い昔に「何か大きな忘れ物」をしてきたような思いがある。
こんなこと書くようになっちゃ私も「昭和の語り部」となったかなと思ったりもするが。

☆☆☆☆☆

お盆明けまでお休みします。
避暑に行ってきまーす♪

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