柿食へば・・・

2003年11月10日 日常
ダンナが柿を3個仕事先からもらってくる。
思わず期待をこめて聞く。
「買った柿?」。
「いやーどっかの家でとれたのらしいよ」。
それにしては形も色艶もよく立派なもので、これならおいしいかもしれないと思わせるような柿だ。

私が学生の頃。
やっと東京の生活にも慣れてきたころにホテルのレストランで会食する機会があった。
そのとき「季節の果物」としてデザートに出てきたのが柿。
都会育ちの友人たちが「うわー柿だ」「めずらしいねー」なんて口々に言いながらおいしそうに食べるのをみてカルチャーショックを感じたものだ。

デザートとして出てきてほしいのはなんたって「メロン」だろう。
田舎育ちの私にとって柿なんてコドモの頃に一生分食べてしまったので、もうわざわざ食べたくない。
それを有難がって食べる都会の友人たちがきらきら輝いて見えたものだ。

実家の庭には柿の木が3本もあって、私が子供の頃には柿の季節になるとバケツに山盛り縁側に置いてあった。
「なんか食べるものないー?」と聞くと「柿でも食べてー」の返事が返ってくる。
最初からの渋柿はしょうちゅうに漬けて渋みを抜いたり、皮をむいて紐に並べてつるして干し柿にしたり。
今でも干し柿が並んでぶらさがっていた光景をなつかしく思い出す。

柿そのものはまずいとは思わなかったし今でも渋みがなく甘い柿はおいしいものだとは思うが・・・・
食べ物は「もっと食べたいなあ」と思うところがいいところだ。
柿だって半分とか1個とかちょっと食べるからこそありがたみがあるのだろう。
食べても食べてもバケツに山盛りあって減らない柿を見るたびうへー・・と思ったことを思い出す。

食べてみるまでその柿が甘く熟しているのか渋みがぬけていないものかわからない、というのも困ったものだった。
私の中では柿は「甘くておいしいものに当たる確率は低い」と体がそう思ってしまっている。
今、スーパーなどでお行儀よくパック詰めされ売られている柿を見ると「間違いなく甘くておいしいんだろうな。甘くておいしい柿なら食べたいな」とは思うが、買ってまで食べる気にならないのはそういう思いがあるからだ。

ダンナの実家にも柿の木があり、柿に対してはやはり私と同じ思いらしい。
学校帰りに柿の木からとって食べたとか、おやつはいつも柿だったとか・・。
今も近所で柿の実がなると「取っていっていいよ」と言われるのだがダンナも私も「柿は・・・」とつい遠慮している。

いただいた柿を食べてみる。
ジューシーで甘くておいしい!
3個あったものがあっという間になくなる。
息子「うまーい。パパイヤみたい。もっと食べたいから買って来て」。
ほうーパパイヤか。一度か二度くらいしか食べたことないはずのパパイヤと同等とは。

「隣んちで柿とっていっていいって言うからもらってくる?」と聞くと、息子「だめ。木になってる柿はまずいから、買って来て」。
木になってる柿はまずい、って・・・。
柿は木になるもんでしょーが。
まあ、息子の言い分もわかるけど、そんなわけで柿は私にとって微妙な位置づけの果物なのである。

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