都会に届く故郷のりんご
2003年11月15日 日常実家よりりんごが届く。
さっそく箱を開ける。
ひとつずつ白いネットにくるまれ、箱いっぱいにお行儀よくおすましして並んでいるりんごたち。
りんごの甘酸っぱい香りが部屋いっぱいに広がる。
実家の近くにはりんご園がいくつもあったが、柿のようにとって食べられるものではなかった。
厳重に管理されていて、それは「都会に送るための果物」として作られていたものだった。
りんごのシーズンになると、地元の人たちは規格外の「くずりんご」を安く手に入れられる。
くずりんご・・といっても味には変わりない。ただ形が悪かったり少し小さかったりちょっと色がはげていたりそんなもの。
地元で食べるりんごは最高においしい。
いっぱいの太陽と澄んだ空気ときれいな水。
そしてきりっとした寒さ。
そんな自然がりんごの味を作ってくれる。
私が小中学生のころのマラソン大会ではゴールした子供たちに一個ずつりんごが配られた。
木で編んだ大きなザルに山盛りのりんごの赤は遠くからでもよく見え、そのりんごの山目指してゴールに飛び込む。
のどが渇いているので少しでも早くりんごにかぶりつきたいけれど、ぐっとがまんしてキュッキュッと体操着の端で磨いて光らせる。
光り具合を友達と見せあいっこしながら、静物画のモデルのようになったピカピカのりんごを皮のまま丸かじりする。
・・・最高においしかったのを覚えている。
私が実家にいたころは、りんごのシーズンには食卓にはいつもりんごがあった。
こがらしが吹くころにはりんごのケーキを焼き、落ち葉で焼きイモを作るときは焼きりんごもいっしょに作る。
時期が過ぎて柔らかくなったものは砂糖で煮てりんご煮にする。
でもそれはシーズンの頃の柿や正月あけのみかんのように義務感にかられて食べるものでもなかった。
りんごは私にとっては身近な果物であり、都会のスーパーで見かけると故郷の秋から冬を思い出す果物なのである。
だから、こうして「正装させられている」りんごたちを見ると「おまえたちも大変だなー」なんてついねぎらいの言葉をかけたくなってしまう。
私のところに来るときは普段着のままでいいんだよ、そんな気持ちになる。
そして、都会の親戚たちに送るついでに私にまで箱入りの高級りんごを送ってくれる田舎の父母に感謝すると同時に、普通の一山いくらのくずりんごでいいのになあと申しわけなく思ったりするのだ。
さっそく箱を開ける。
ひとつずつ白いネットにくるまれ、箱いっぱいにお行儀よくおすましして並んでいるりんごたち。
りんごの甘酸っぱい香りが部屋いっぱいに広がる。
実家の近くにはりんご園がいくつもあったが、柿のようにとって食べられるものではなかった。
厳重に管理されていて、それは「都会に送るための果物」として作られていたものだった。
りんごのシーズンになると、地元の人たちは規格外の「くずりんご」を安く手に入れられる。
くずりんご・・といっても味には変わりない。ただ形が悪かったり少し小さかったりちょっと色がはげていたりそんなもの。
地元で食べるりんごは最高においしい。
いっぱいの太陽と澄んだ空気ときれいな水。
そしてきりっとした寒さ。
そんな自然がりんごの味を作ってくれる。
私が小中学生のころのマラソン大会ではゴールした子供たちに一個ずつりんごが配られた。
木で編んだ大きなザルに山盛りのりんごの赤は遠くからでもよく見え、そのりんごの山目指してゴールに飛び込む。
のどが渇いているので少しでも早くりんごにかぶりつきたいけれど、ぐっとがまんしてキュッキュッと体操着の端で磨いて光らせる。
光り具合を友達と見せあいっこしながら、静物画のモデルのようになったピカピカのりんごを皮のまま丸かじりする。
・・・最高においしかったのを覚えている。
私が実家にいたころは、りんごのシーズンには食卓にはいつもりんごがあった。
こがらしが吹くころにはりんごのケーキを焼き、落ち葉で焼きイモを作るときは焼きりんごもいっしょに作る。
時期が過ぎて柔らかくなったものは砂糖で煮てりんご煮にする。
でもそれはシーズンの頃の柿や正月あけのみかんのように義務感にかられて食べるものでもなかった。
りんごは私にとっては身近な果物であり、都会のスーパーで見かけると故郷の秋から冬を思い出す果物なのである。
だから、こうして「正装させられている」りんごたちを見ると「おまえたちも大変だなー」なんてついねぎらいの言葉をかけたくなってしまう。
私のところに来るときは普段着のままでいいんだよ、そんな気持ちになる。
そして、都会の親戚たちに送るついでに私にまで箱入りの高級りんごを送ってくれる田舎の父母に感謝すると同時に、普通の一山いくらのくずりんごでいいのになあと申しわけなく思ったりするのだ。
コメント