ハム太昇天

2003年12月7日 日常
朝見たらハム太が死んでいた。

きのうの朝もあぶなかった。
巣の中ではなくおがくずのすみっこにうずくまって動かない。
死にかけていたハム太は妙に力がなくふにゃっとしていて、私と娘とでストーブやこたつであっためたり好きなひまわりの種をむいて食べさせたりして蘇生させた。
きのうの夜には回し車をまわしたりハム子とチュッチュッと鳴き合ったりしていたのに。
けさ見たときはもうだめだった。

いつもはおしゃべりな娘が何もしゃべらず、ティッシュにくるんだハム太をひざに乗せなでている。
レースのカーテン越しの明るい日差しで逆光になり娘の表情はわからないが、輪郭だけが淡い黄金色に見える。
娘の手のぬくもりが移ったハム太の体は温かく毛もフワフワのままで、思わずまだ生きているのかと思うほど。
私と娘はしばらく何も言わずにハム太を指先でなでる。
ビーズのような真っ黒なつぶらな瞳は固く閉じられもう開くことはない。

しばらくして意を決したように娘は立ち上がり、そこらにあるおがくずやハムのおふとん、ひまわりの種やペレットなどを手早く手に取り玄関を開けて外に出た。
ハムを見送るのはこれで10回目にもなろうか。
たいていはきょうみたいに寒い冬の朝だ。
北風が冷たく雲ひとつないスカーンと晴れた青空がどこまでも澄みわたっている。

スコップでざくざくと穴を掘る。
ハムのおふとん綿をしいた上にハム太をそっと寝かせる。
おがくずと綿をまた丁寧にかけてやる。
手向けのひまわりの種や星型のペレットをハム太のまわりに入れてやる。
土をかけ手ごろな平べったい石を探して墓石代わりに乗せて手を合わせる・・・。

それがいいことなのか悪いことなのかわからないが、一連の作業は今までに何度もやっている通りで手慣れたものだ。
ハムを飼って数年になるので庭には何匹もハムが埋まっている。
「死んだらまたペットショップで買ってくればいい」くらいにコドモたちは思ってしまっていないか。
「ハムは消耗品」みたいに思ってしまっていないか。
かわいがっていたハム太の死に涙ひとつ見せない娘に私はちょっとそう思った・・・そのとき。

娘がボソボソと自分に言い聞かせるように言う。
「おかあさん、ハム太はうちに来てしあわせだったよね。
私もおかあさんもにーちゃんもハム太と遊んだりかわいがったりしたよね。
エサだっていっぱいいろんな種類あげたよね。
ハム子とだって仲良くしたし、子ハムもうまれたし、ハム太はうちに来てしあわせだったよね。
できることはちゃんとやってあげたよね・・・?」。

何をもってハムスターのしあわせというのかはわからないが・・・娘は娘なりに気持ちを納得させていたのだ。
「死んだら次」と軽く考えていただけじゃなかった。
「やるだけのことはちゃんとやってあげられた。だから私もハム太もしあわせ」。
そう思ったのだろう。

人間、「あのときああしていれば・・・」という後悔の念があるとあとあとまで気持ちを引きずるものだ。
娘は「せいいっぱいやることはやってあげられた」と・・・ハム太との最後のお別れのときに自分に言い聞かせ、そのお別れを自分の中で消化できたのだろう。
私も・・こんな短命な生き物をいくら飼ったところでかわいそうなだけと思いながらも、そのときそのとき十分にかわいがっているつもりなので、次の新しいハムスターとの出会いはまた新鮮な気持ちになれる。

ハム太、うちに来てくれてありがとう。
ハム子といっしょの写真をテレビの上に飾ってずっと忘れないからね。
天国でもしあわせにね。
合掌。

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