3月になり、週に3日の出勤になった。
ひさびさの平日休みがうれしくて映画に行ったり「街」に出て大きな本屋やデパートをふらふらしたり。
その合間にたまっていた雑誌・郵便物の整理や掃除で少しは片付く。
ひさしぶりに平日の昼間に洗濯物を干したりスーパーに買い物に行ったりすると、時間の流れがゆったりしていてこれはこれでのんびりしていて明るい春のひざしがうれしい。
ふとこれもいいかあー・・・と思う。
学校の仕事が入る前、私は在宅の仕事をしていた。
収入はそれほどでもないが時間は調整できたので、主婦仲間とランチやショッピングも行けたし、レディス料金で好きな映画に行ったり話題の本をすぐに読んだりできた。
何よりコドモたちが急な病気のときすぐ迎えに行ったり病院に連れて行けたり安心だった。
忙しかった2月で仕事のヤマは越えたって気分になっていたので、なんだか学校に仕事に行っていたことは遠い昔の別世界のことのように思えた。
が。
「なーんか休んじゃってペース乱れたなあ」なんて職場に行くと・・・。
遠くからでも私を見つけると手をふって走ってくる子供たちの笑顔。
「せんせーどうしてきのういなかったの?」「絵、書いてくれるって言ったのに」なんて言いながら周りに集まってくる。
・・・市の予算の都合で3月は週に3日になったんだよなんて言えないしなあ。
朝の8時15分、小学校はスタートする。
週に2日は朝運動の日。冬の真っ青な朝の空の下、全校児童でなわとびの時間。
音楽に合わせて子供たちといっしょになわとびをしていると、今度はぬくぬくと家にいたことが別世界のように思えるからフシギだ。
8時15分なんて家にいたらファンヒーターの前でのんびりコーヒー飲んで新聞読んでる時間。まだ寒いから活動開始は9時からでいいや、なんて思いながら。
「小学校」というのは強力な磁場が存在するようで、なんというか・・・何をしていても何を考えていてもグイッと物事のド真ん中に修正させられてしまう、そんな力が働いているところだ。
それは「子供」というまだ汚れていない生き物が持つ正のエネルギーがうずまいているためだろう。
中学校でも塾でも仕事をしたことがあるが小学校はやっぱり違う。
青空のもと子供たちと声をあげながら体育の時間にキックベースをしたり音楽の時間いっしょに歌ったり演奏したりするのは楽しい。
さっきまで負の気持ちがあったとしてもいつのまにか切り替わってしまう。
これは現在私が担任を持たない非常勤のパートの先生であり、過去に一度辞めた職場だからこそ感じることだろうけど。
そしてうちのコドモたちもこうやって学校でいろいろなことして生活してるんだなあ、とまた別の視点でうちのコドモたちの話を聞いたりがんばりをほめてやることもできるのはうれしいおまけ。
最近読んだよしもとばななの小説にこんな表現がある。
「迫力のある外側のもののおかげで助けられ、山にいるあいだ自分の内側に沈み込みすぎなくてすんだ。
外側の力、とは、窓が割れそうな勢いの台風とか、目が覚めるような朝焼けだとか、夕方いっせいに鳥がわたって帰っていくところだとか、そういうものだ。
何をしていてもそういうものを目にするとはっと魅せられ全てがふっとんでしまう」。
「迫力のある外側の力」・・・子供たちが持つ正のエネルギーはまさにそれだ。
「じゃああしたね」「あしたもつづきやろうね」なんて子供たちと言いながらいつものように帰り支度。
・・明日は休みなんだよなあ。
とびとびで学校に来てたんじゃリズムというかペースがつかみづらくて、子供たちとも継続の作業なり勉強なりができなくてもどかしい。
のんびりしててラクだけど仕事として考えると毎日行っていたときのほうがやっぱりいい。
私のこの仕事は「更新」「更新」で行く契約なので、市の予算の関係で4月からまたどうなるかわからない。
3月の学校は「お別れの寂しさ」と「出会いへの期待」の両方を感じる場所。
1年生たちは「6年生のおにいさんおねえさんへのありがとうのお手紙」と「(まだ見ぬ)かわいい1年生へのようこそのお手紙」を同時進行で書いている。
自分たちで育てたあさがおのタネのプレゼント付きで。
自分の名前に「2年1組」と書くのがうれしいような恥ずかしいようなかわいい笑顔。
一年前の私は負のエネルギーをまとったものを切り離せなかったために、負の気持ちの沼に沈んでいたが・・・最近はほとんど負の気持ちを持つことさえなくなった。
3月のすかーんと晴れた青空が妙に切なく哀しく思えたころのことがうそのようだ。
きょうの青空はとても気持ちよく穏やかにどこまでも晴れわたっている。
ひさびさの平日休みがうれしくて映画に行ったり「街」に出て大きな本屋やデパートをふらふらしたり。
その合間にたまっていた雑誌・郵便物の整理や掃除で少しは片付く。
ひさしぶりに平日の昼間に洗濯物を干したりスーパーに買い物に行ったりすると、時間の流れがゆったりしていてこれはこれでのんびりしていて明るい春のひざしがうれしい。
ふとこれもいいかあー・・・と思う。
学校の仕事が入る前、私は在宅の仕事をしていた。
収入はそれほどでもないが時間は調整できたので、主婦仲間とランチやショッピングも行けたし、レディス料金で好きな映画に行ったり話題の本をすぐに読んだりできた。
何よりコドモたちが急な病気のときすぐ迎えに行ったり病院に連れて行けたり安心だった。
忙しかった2月で仕事のヤマは越えたって気分になっていたので、なんだか学校に仕事に行っていたことは遠い昔の別世界のことのように思えた。
が。
「なーんか休んじゃってペース乱れたなあ」なんて職場に行くと・・・。
遠くからでも私を見つけると手をふって走ってくる子供たちの笑顔。
「せんせーどうしてきのういなかったの?」「絵、書いてくれるって言ったのに」なんて言いながら周りに集まってくる。
・・・市の予算の都合で3月は週に3日になったんだよなんて言えないしなあ。
朝の8時15分、小学校はスタートする。
週に2日は朝運動の日。冬の真っ青な朝の空の下、全校児童でなわとびの時間。
音楽に合わせて子供たちといっしょになわとびをしていると、今度はぬくぬくと家にいたことが別世界のように思えるからフシギだ。
8時15分なんて家にいたらファンヒーターの前でのんびりコーヒー飲んで新聞読んでる時間。まだ寒いから活動開始は9時からでいいや、なんて思いながら。
「小学校」というのは強力な磁場が存在するようで、なんというか・・・何をしていても何を考えていてもグイッと物事のド真ん中に修正させられてしまう、そんな力が働いているところだ。
それは「子供」というまだ汚れていない生き物が持つ正のエネルギーがうずまいているためだろう。
中学校でも塾でも仕事をしたことがあるが小学校はやっぱり違う。
青空のもと子供たちと声をあげながら体育の時間にキックベースをしたり音楽の時間いっしょに歌ったり演奏したりするのは楽しい。
さっきまで負の気持ちがあったとしてもいつのまにか切り替わってしまう。
これは現在私が担任を持たない非常勤のパートの先生であり、過去に一度辞めた職場だからこそ感じることだろうけど。
そしてうちのコドモたちもこうやって学校でいろいろなことして生活してるんだなあ、とまた別の視点でうちのコドモたちの話を聞いたりがんばりをほめてやることもできるのはうれしいおまけ。
最近読んだよしもとばななの小説にこんな表現がある。
「迫力のある外側のもののおかげで助けられ、山にいるあいだ自分の内側に沈み込みすぎなくてすんだ。
外側の力、とは、窓が割れそうな勢いの台風とか、目が覚めるような朝焼けだとか、夕方いっせいに鳥がわたって帰っていくところだとか、そういうものだ。
何をしていてもそういうものを目にするとはっと魅せられ全てがふっとんでしまう」。
「迫力のある外側の力」・・・子供たちが持つ正のエネルギーはまさにそれだ。
「じゃああしたね」「あしたもつづきやろうね」なんて子供たちと言いながらいつものように帰り支度。
・・明日は休みなんだよなあ。
とびとびで学校に来てたんじゃリズムというかペースがつかみづらくて、子供たちとも継続の作業なり勉強なりができなくてもどかしい。
のんびりしててラクだけど仕事として考えると毎日行っていたときのほうがやっぱりいい。
私のこの仕事は「更新」「更新」で行く契約なので、市の予算の関係で4月からまたどうなるかわからない。
3月の学校は「お別れの寂しさ」と「出会いへの期待」の両方を感じる場所。
1年生たちは「6年生のおにいさんおねえさんへのありがとうのお手紙」と「(まだ見ぬ)かわいい1年生へのようこそのお手紙」を同時進行で書いている。
自分たちで育てたあさがおのタネのプレゼント付きで。
自分の名前に「2年1組」と書くのがうれしいような恥ずかしいようなかわいい笑顔。
一年前の私は負のエネルギーをまとったものを切り離せなかったために、負の気持ちの沼に沈んでいたが・・・最近はほとんど負の気持ちを持つことさえなくなった。
3月のすかーんと晴れた青空が妙に切なく哀しく思えたころのことがうそのようだ。
きょうの青空はとても気持ちよく穏やかにどこまでも晴れわたっている。
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