娘のスイミング見学に行く。
見に行くのはひさしぶりだ。

コドモたちが小さいときはいつも送り迎えをして更衣室で着替えさせてもやり、いっしょにやっている子のおかあさんたちとずっとおしゃべりしながら待っていたものだった。
が、今は娘もひとりで行き帰りするのですっかりスイミングスクールはごぶさた。

「見にきてよ。私のバタフライ」と娘が言うので買い物がてら見に行くことにする。
今年からバタフライにあがった娘は、毎度へろへろになってスイミングから帰って来る。
「もうねー休む暇もないんだからねー」という娘の言葉にふと引かれる。
・・・バタフライか。
ちっちゃくてプールに入ると足がつかなくて頭まで沈んでしまっていた娘が。

娘は幼稚園の頃からスイミングに通っている。
友達数人といっしょにスイミングに入ったはいいが、体も小さく休むことも多く体力もなかったのでどんどん置いていかれた。
スイミングスクールでは「級」が上がるたびに帽子の色が変わっていく。
娘の友達たちのスイミングキャップの色が変わっていくのを私は少しうらやましく見たものだった。

友達がみんな上にあがっていって自分だけ。自分といっしょのクラスは自分より小さい子ばかり。
息子ならこんな状況そのものが嫌でやめてしまうところだが・・・娘はどこ吹く風。
「上がるといっぱい泳いでたいへんだからいいの。ともだちはどこでもできるし」と、年下の子でも他の学校の子でもその場で友達を作っていく娘。
私や息子にはない社交的なところは娘の良いところだ。

いっしょに入った友達たちは早く上がったはいいが、みんな練習がつらくて小学校低学年のうちに辞めてしまった。
平泳ぎまでできれば、とも思うのでバタフライになってもずっと続ける子はそんなに多くない。
息子もバタフライまでとりあえずやったが、キツくて最後まで極めずやめてしまった。今ではバタフライができるかどうかも不明。

娘を見ているとつくづく「継続は力なり」だと思う。
何事も「ずっと続けること」は大切で意味のあることなんだなあと思う。
うさぎとかめの昔話のとおり、ゆっくりの歩みでも継続することによって長い距離になる。

さて、ひさしぶりに足を踏み入れたスクールのフロアは昔と同じでプールの塩素の匂いもなんとなくなつかしい。
こんなに狭かったっけ・・・と思うのは、記憶の中のスイミングがコドモの幼稚園時代のものだからか。
25メートルプールの中では小学生たちが次々と泳いでいる。

娘は・・・?
たくさんいるしみんなゴーグルもしているので私はすぐには娘を探せなかった。
どこにいるんだろう・・・。
しばらく見ているとガラスの向こうで手を振るスラリとした水着姿の女の子。
・・・えっ!これがうちの子?

私の記憶の中のスイミングの娘は、ピンクのキティちゃんのゴーグルをかけ、おなかがぽっこりと出た幼児体型のはず。
並んでいる中でも背も小さいはず・・・そう思って探していたので見つからなかったのだ。
目の前にいる娘は、手足もすらりと長く肩幅もしっかりしていておなかなんて出てない。
ゴーグルもそういえば黒いのに買い換えたのだった。
夏以降ぐーんと背も伸びたので並んでいるほかの子たちと背も変わらない。
娘の水着姿をしばらく見ていないうちに、こんなにもすらりと手足が伸びてしっかりした骨格になっていたことに驚く。

3月生まれで体も小さくぜんそく気味だったので、私の中ではいつでも「ちっちゃい子」扱いの娘。
その娘が黒いゴーグルもりりしく水を切りながらバタフライで泳いでいる。
それはすぐには信じられないような光景だった。

コドモはちょっと目を離しているとどんどん成長する。
「とどめておきたい、と願うのはそれ自体物事が折り返し地点に達したことのしるしだ。終焉に向かっていることの」とは何かの小説のワンフレーズ。
たしかに「この状態がいつまでも続く」というときは「とどめておきたい」とは考えない。
「終焉」とは今の場合「子供時代の終焉」か。

「あと少しだな」と思うからこそ・・・息子のランドセル姿だって娘のまだ幼いしぐさだって記憶に残しておきたい・・・と思う。
息子も娘も今は私の腕の中にいる・・・ように思うがあと半年後にはわからない。
今がちょうど二人とも芽吹きのときなんだろうな。

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