冬ドラマ総括・その2「僕と彼女と彼女の生きる道」
2004年3月25日 TV「僕と彼女と彼女の生きる道」が終了。
毎回、これからどうなるんだろう・・・と思いながら見た。
最終回、お別れを前にいっしょに土手でハーモニカをふく徹郎と凛ちゃん。
空はどこまでも青く春の花は風に揺れる・・・。
このシーンに限らず、さりげない日常の風景や空の色の描き方も美しく、またその風景が美しければ美しいほど見るものの人の心を哀しくさせることもあるということに気づく。
そして無常にも閉まる新幹線のドアに隔てられる二人。
精一杯窓に背伸びする凛ちゃんと遠ざかる新幹線を泣き顔で見送る徹朗には完全にやられてしまった。
涙なみだ・・・。
徹朗の気持ち、加奈子の気持ち、凛ちゃんの気持ち、それぞれを思いまた自分の立場に置き換えいろいろと考えさせられた。
大切な人たちの笑顔がそばにあること、いっしょに同じものを見ること、そんななにげないことが「絆」を深めていくのだということもあらためて気づかされる。
そして愛する人に愛していると「伝える」ことの大切さ。
いろんなことを思う。
どんなふうに締めくくるのかが一番気になるドラマであり、だからこそ終わったあと「えっ?こんな終わり方」と肩すかしをくらったような気分が少しだけ残る。
それぞれが自分の納得のいく「生きる道」を見つけたのだからドラマとしては最良の終わり方なんだろう。
徹朗、加奈子、凛ちゃん3人の道が交わって同じ道を歩いていけるのが理想。でもそうもいかない。
だからそれぞれの「道」を歩いていく。
生き方に答えなんかない。
それぞれの納得のいく「生きる道」を歩いていくだけ。
まあ・・よかったよね、これしかないよね、という終わり方ではあったが・・・。
どうも少しだけ納得がいかなかった。
それは私が加奈子寄りの立場であり、ゆら先生の存在が微妙だな・・・と思っていたから。
確かにゆら先生がいたからこそ徹郎も凛ちゃんも救われたのだろう。
でも家庭教師の立場を明らかに超えていたし元妻の立場に立てばこの展開はあまりにも都合よすぎる気がする。
しかもラストの「半年後」には徹郎とゆら先生はうまくいっている様子。
そして凛ちゃんまで仲良く3人笑顔で。
・・・うーんありえない。ドラマだからしょうがないのかな。
それと、凛ちゃんがあまりにもおりこうすぎるのも気になる。
オトナ側からすればけなげでかわいいと思うかもしれないが、7歳やそこらで周囲の様子をうかがい感情を飲み込んでそれに合わせて「良い子」になっている(周囲がさせてしまっている?)凛ちゃんが私は痛々しかった。
それは私自身の子供時代の姿とつい重ね合わせてしまうからか。
良い子を演じているコドモは「自分」をがんじがらめに縛って実は傷ついているのだ・・・。
母親に一度は捨てられ残った父親にも冷たくされ・・やっと仲良くなれたと思った父親から引き離され、親の都合で転校し名前も変わり、さらに父親の新しい彼女とも仲良くする・・そんな子供が自分の「素」の感情を飲み込んでいないわけがない。
うちのダンナは加奈子が出て行く以前の徹朗。
だからドラマの初めのほうで徹朗が凛ちゃんにつらくあたったときは、自分に重ね合わせて本当にムカムカした。
加奈子が徹朗に「私が育てたの!」「これもこれも私が作ったの!」と言ったときはそうだそうだと心から思った。
ダンナはコドモたちのことを大切には思っているらしい。
が、少なくとも「愛を具体的な形で伝えない父親」だ。
以前、私はそのことがものすごく不満だったし不幸なことだと思っていた。
うちは母子家庭みたいだ、ほかのおとうさんみたいに子供たちと遊んだりもしないしリーダーシップもとらない、と。
でも、あるときダンナ自身が自分の親に具体的に愛情を表現してもらえなかった子供だったと知る。
「愛情がないのではなくどんなふうにコドモと接していいのかわからなかった」のだと理解したとき・・・仕事に打ち込み言葉は少ないがダンナなりに子供たちのことを大切に思っていたということに気づいた。
子供は親が自分にしてくれたことをその子供にするという。
それは世代間の連鎖。
私自身も気づくとプラスのこともマイナスのことも父や母が私にしたことをコドモたちにしている。
私は言葉で「大切だよ」「大好きだよ」と親に言われた記憶はない。
でも自分のコドモたちには機会を見つけては言葉で愛を伝えるようにしていこうとあらためて思う。
ダンナもこのドラマを見ていたはず。何か感じていてくれればいいなと思っている。
毎回、これからどうなるんだろう・・・と思いながら見た。
最終回、お別れを前にいっしょに土手でハーモニカをふく徹郎と凛ちゃん。
空はどこまでも青く春の花は風に揺れる・・・。
このシーンに限らず、さりげない日常の風景や空の色の描き方も美しく、またその風景が美しければ美しいほど見るものの人の心を哀しくさせることもあるということに気づく。
そして無常にも閉まる新幹線のドアに隔てられる二人。
精一杯窓に背伸びする凛ちゃんと遠ざかる新幹線を泣き顔で見送る徹朗には完全にやられてしまった。
涙なみだ・・・。
徹朗の気持ち、加奈子の気持ち、凛ちゃんの気持ち、それぞれを思いまた自分の立場に置き換えいろいろと考えさせられた。
大切な人たちの笑顔がそばにあること、いっしょに同じものを見ること、そんななにげないことが「絆」を深めていくのだということもあらためて気づかされる。
そして愛する人に愛していると「伝える」ことの大切さ。
いろんなことを思う。
どんなふうに締めくくるのかが一番気になるドラマであり、だからこそ終わったあと「えっ?こんな終わり方」と肩すかしをくらったような気分が少しだけ残る。
それぞれが自分の納得のいく「生きる道」を見つけたのだからドラマとしては最良の終わり方なんだろう。
徹朗、加奈子、凛ちゃん3人の道が交わって同じ道を歩いていけるのが理想。でもそうもいかない。
だからそれぞれの「道」を歩いていく。
生き方に答えなんかない。
それぞれの納得のいく「生きる道」を歩いていくだけ。
まあ・・よかったよね、これしかないよね、という終わり方ではあったが・・・。
どうも少しだけ納得がいかなかった。
それは私が加奈子寄りの立場であり、ゆら先生の存在が微妙だな・・・と思っていたから。
確かにゆら先生がいたからこそ徹郎も凛ちゃんも救われたのだろう。
でも家庭教師の立場を明らかに超えていたし元妻の立場に立てばこの展開はあまりにも都合よすぎる気がする。
しかもラストの「半年後」には徹郎とゆら先生はうまくいっている様子。
そして凛ちゃんまで仲良く3人笑顔で。
・・・うーんありえない。ドラマだからしょうがないのかな。
それと、凛ちゃんがあまりにもおりこうすぎるのも気になる。
オトナ側からすればけなげでかわいいと思うかもしれないが、7歳やそこらで周囲の様子をうかがい感情を飲み込んでそれに合わせて「良い子」になっている(周囲がさせてしまっている?)凛ちゃんが私は痛々しかった。
それは私自身の子供時代の姿とつい重ね合わせてしまうからか。
良い子を演じているコドモは「自分」をがんじがらめに縛って実は傷ついているのだ・・・。
母親に一度は捨てられ残った父親にも冷たくされ・・やっと仲良くなれたと思った父親から引き離され、親の都合で転校し名前も変わり、さらに父親の新しい彼女とも仲良くする・・そんな子供が自分の「素」の感情を飲み込んでいないわけがない。
うちのダンナは加奈子が出て行く以前の徹朗。
だからドラマの初めのほうで徹朗が凛ちゃんにつらくあたったときは、自分に重ね合わせて本当にムカムカした。
加奈子が徹朗に「私が育てたの!」「これもこれも私が作ったの!」と言ったときはそうだそうだと心から思った。
ダンナはコドモたちのことを大切には思っているらしい。
が、少なくとも「愛を具体的な形で伝えない父親」だ。
以前、私はそのことがものすごく不満だったし不幸なことだと思っていた。
うちは母子家庭みたいだ、ほかのおとうさんみたいに子供たちと遊んだりもしないしリーダーシップもとらない、と。
でも、あるときダンナ自身が自分の親に具体的に愛情を表現してもらえなかった子供だったと知る。
「愛情がないのではなくどんなふうにコドモと接していいのかわからなかった」のだと理解したとき・・・仕事に打ち込み言葉は少ないがダンナなりに子供たちのことを大切に思っていたということに気づいた。
子供は親が自分にしてくれたことをその子供にするという。
それは世代間の連鎖。
私自身も気づくとプラスのこともマイナスのことも父や母が私にしたことをコドモたちにしている。
私は言葉で「大切だよ」「大好きだよ」と親に言われた記憶はない。
でも自分のコドモたちには機会を見つけては言葉で愛を伝えるようにしていこうとあらためて思う。
ダンナもこのドラマを見ていたはず。何か感じていてくれればいいなと思っている。
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