忙しさに紛れて気がつくのが遅くなったが、「だいありー」を書き始めて1年が過ぎた。
「日記」という個人的なものだけれど、やっぱり読んでいる人を意識して文章を書くからこそおもしろみがあって、それが長く続けられる要因のひとつだなあと思う。
読んでいただいている方々、本当にどうもありがとうございます。
これからもよろしくおつきあいくださいませ。
「しあわせの種まき☆」。
そんなタイトルにしたのは最近のことで、その前は「しあわせってさ・・・☆」だったか。
日記を書き始めた1年前、私は精神状態が良くなく「普通の生活の中のごくあたりまえのしあわせ」をしあわせだと感じられなくなっていた。
だから、毎日の生活を見つめなおすことで、「しあわせって何だろう」「どうしたらしあわせと感じられるんだろう」、そんなことを考えてみたいと思ったのだった。
「幸福とは何か」なんて考えている時点で、そのころの精神状態は普通ではなかったのだと、今思う。
だってふだんはそんなこと意識しないものだから。
現在、あわただしく過ぎていく毎日だけれど「私は今しあわせなのか」なんて考えない。
それなりに毎日の生活をこなしていて、それなりに生活の中で楽しみを見つけ、それなりに生きている。
お金はないけれど衣食住足りているし、大切な人たちは元気で暮らしているし、まあホントに「それなり」なのだが。
1年前の自分と今の自分。
決定的に違うところは・・・「他力本願ではなくなったこと」。
もうひとつは「他人の気持ち、という目に見えないものを勝手に推し測って落ち込まないこと」。
「いいことないかなあ」とか「だれかが自分を楽しくさせてくれないかなあ」とか・・・しあわせの基準が「他人」になっていてはだめなのだ。
しあわせを人にゆだねたり人とくらべたりしているうちは、いつまでたってもしあわせになんかなれっこない。
「しあわせになる」という言い方もちょっと違うだろう。
「なる」のではなくそう感じられるかどうか。
幸福とは「ものの見方」であり、基準は「自分」の中にある。
少し先の未来のためにちょっとだけ意識して「しあわせの種まき」をする。
ほんのささいなこと、例えば「花の苗を買う」「図書館に本をリクエストする」「友達とランチの約束をする」「見たい映画の公開日を手帳に書く」などなど。
「種まき」をすればするほど「待つ時間」は楽しいし「収穫」も多くなる。
タイトルの下の言葉「しあわせはね、ただ待っていてもこないよ。人とくらべてもいけないよ。人にゆだねるものでもないよ」。
これは、原点を忘れないように・・・とここを開くたびに読む言葉。
日記ではなるべく生活の中から「楽しいこと・うれしいこと・感動したこと」など拾って書いているつもり。
私は楽天的なほうではないので、マイナスの感情にスポットライトを当ててしまうとそれにとらわれてしまうから。
まあそれはともかく、最近はトシのせいで忘れっぽくなっているので心が動いたことを書きとめる、ということが一番。
無理せず細く長く続けていこうと思ってます。
「日記」という個人的なものだけれど、やっぱり読んでいる人を意識して文章を書くからこそおもしろみがあって、それが長く続けられる要因のひとつだなあと思う。
読んでいただいている方々、本当にどうもありがとうございます。
これからもよろしくおつきあいくださいませ。
「しあわせの種まき☆」。
そんなタイトルにしたのは最近のことで、その前は「しあわせってさ・・・☆」だったか。
日記を書き始めた1年前、私は精神状態が良くなく「普通の生活の中のごくあたりまえのしあわせ」をしあわせだと感じられなくなっていた。
だから、毎日の生活を見つめなおすことで、「しあわせって何だろう」「どうしたらしあわせと感じられるんだろう」、そんなことを考えてみたいと思ったのだった。
「幸福とは何か」なんて考えている時点で、そのころの精神状態は普通ではなかったのだと、今思う。
だってふだんはそんなこと意識しないものだから。
現在、あわただしく過ぎていく毎日だけれど「私は今しあわせなのか」なんて考えない。
それなりに毎日の生活をこなしていて、それなりに生活の中で楽しみを見つけ、それなりに生きている。
お金はないけれど衣食住足りているし、大切な人たちは元気で暮らしているし、まあホントに「それなり」なのだが。
1年前の自分と今の自分。
決定的に違うところは・・・「他力本願ではなくなったこと」。
もうひとつは「他人の気持ち、という目に見えないものを勝手に推し測って落ち込まないこと」。
「いいことないかなあ」とか「だれかが自分を楽しくさせてくれないかなあ」とか・・・しあわせの基準が「他人」になっていてはだめなのだ。
しあわせを人にゆだねたり人とくらべたりしているうちは、いつまでたってもしあわせになんかなれっこない。
「しあわせになる」という言い方もちょっと違うだろう。
「なる」のではなくそう感じられるかどうか。
幸福とは「ものの見方」であり、基準は「自分」の中にある。
少し先の未来のためにちょっとだけ意識して「しあわせの種まき」をする。
ほんのささいなこと、例えば「花の苗を買う」「図書館に本をリクエストする」「友達とランチの約束をする」「見たい映画の公開日を手帳に書く」などなど。
「種まき」をすればするほど「待つ時間」は楽しいし「収穫」も多くなる。
タイトルの下の言葉「しあわせはね、ただ待っていてもこないよ。人とくらべてもいけないよ。人にゆだねるものでもないよ」。
これは、原点を忘れないように・・・とここを開くたびに読む言葉。
日記ではなるべく生活の中から「楽しいこと・うれしいこと・感動したこと」など拾って書いているつもり。
私は楽天的なほうではないので、マイナスの感情にスポットライトを当ててしまうとそれにとらわれてしまうから。
まあそれはともかく、最近はトシのせいで忘れっぽくなっているので心が動いたことを書きとめる、ということが一番。
無理せず細く長く続けていこうと思ってます。
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