見ごろだった桜も無情の雨でずいぶん花びらを落とした。
春の天気はきまぐれ。
冷たい雨が小学校に入学したばかりの一年生たちの黄色いカサを濡らす。
そういえば7年前息子が小学校に入学した登校初日も雨が降り、重いランドセルをしょって慣れないカサをさして通学路を歩いていく息子が心配だったっけ。

先日の日曜日は最高のお花見日和で、主婦友たちや娘の友達たちと「お花見ウォーキング」に参加した。
地域の「歩け歩け会」の方々が月に一度企画しているもので、花や景色を眺めながらの数キロのウォーキング。
50代60代の方がほとんど。

初夏を思わせるさわやかな風が肌に心地よく、あちこちに咲いている艶めいた桃の花や八重桜も春爛漫を思わせる。
それでもやはり主役は桜。
ずらりと土手に並んだ桜は今を盛りと咲き誇りそれは豪華で、風が吹くと雪が舞うように一面に桜吹雪が舞い落ちる。
川面にも桜の花びらが流れ言葉に尽くせないほど風情がある。
私たちは「いいねえ」「贅沢だねえ」などと桜を見ながら歩く。

が、娘たちはウォーキングの最中もじゃれあうように笑い転げたりおしゃべりをしたりで、桜なんて見てるんだか見てないんだか。
主婦友たちとも話したことだが、そういえば子供のころは「桜がきれい」と思ったかどうかあやしい。
オトナたちが「花見に行く」といってもそれほど喜んだ覚えもないし、まあ何か出店で買ってもらえるとかそんなことが楽しかったように思う。
花のあとのさくらんぼ拾いはそれなりに楽しかった記憶はあるけれど、桜そのものはどうだったか。

訪問介護でお年寄りの方々と話していると「あと何回、桜を見られるか」という言葉を聞くことが多い。
足腰が弱っている方でもなんとか毎年お花見に行っているのは「これで最後かもしれない」と思うからか。
そう思いながら桜を眺めると、確かに「諸行無常の響き」とか「盛者必衰のことわり」だとかそんな言葉が脳裏をかすめる。
「三日見ぬ間の桜」ということわざもあるように、桜は豪華だがすぐ散ってしまう。散り際も潔く華やかである。

お年寄りたちがそんな桜を見て「あと何回・・・」と思ってしまうのもわかる気がする。
コドモたちは未来が無限にあるから桜を見て何かを感じることもないのかも。
いやいや私たちにだって無限の未来があることに疑いはなく、「あと何回」なんて思わない。

よく考えてみれば、桜や桃やモクレン、ハナミズキやキンモクセイといったような木の花の良さに気づいたのも私だって最近のこと。
草花のようなかわいらしさや華やかさはないけれど、時が来れば毎年確実に花を咲かせる木の花。
花のない時期はそこにあることすらも主張せず、人間の世界にどんなことがあっても関係ない顔をして、天空に向かってすっと背を伸ばしている木々たち。
その凛とした風情に惹かれるのはやはり私自身、人生の経験値を少しは積んできたからだろう。
地道に地面に根を張り毎年確実に花をつける木の花のようでありたいもの。

さてさて、ウォーキングのあとのお花見。
娘たちは孫のようだとジジババにかわいがられ、刺身やらヤキトリやら寿司やら飲み食いし最高にいい思いをしていた。
ジュースや焼きそばの上にも桜の花びらが舞い落ち、花見の時期ならではの風情であった。

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