こんなタイトルで以前もだいありーを書いたような・・・?
誕生日も過ぎ、年とともに懐古の情が一段と強くなった磯野です。
それはさておき。

二子山親方が亡くなった。
とうに亡くなった私の祖父は大相撲が大好きで、幼かった私はいつも祖父のひざの上で相撲中継を見ていた。
よく覚えていないが大鵬が全盛期のころだろう。
相撲の地方巡業も盛んな頃で、田舎の地方都市にも夏休みになると相撲興業ののぼりが立てられ、そこここで浴衣姿のおすもうさんが見られた時代だった。

祖父の影響もあってか、けっこう私は小中学生のころもオトナになっても大相撲は見ていたほうだと思う。
今の大相撲はつまらないが、平成若貴フィーバーのときはかなり燃えたし二子山部屋の若い力士たちの引き締まったオシリにほぅぅーとなったものである。

それでも、やっぱり私にとってのフェイバリットは現九重親方の「千代の富士」。
当時、「ウルフ」と呼ばれ、力士としては唯一国民栄誉賞も受賞した名横綱である。
おすもうさん、というとぶよぶよっと太ってやたら目も細くて・・・というイメージからかけ離れた精悍な顔立ちと筋肉質の体。
当時、まさに「おすもうさん」の北の湖を見るたびにくらべてしまい、「うぉー千代の富士、かっちょええ」と思ったものだ。

その千代の富士が横綱を引退するきっかけとなったのが貴乃花との一戦。
忘れもしない平成3年5月場所初日!(妊婦だったので覚えている)
まだ二十歳そこそこの貴花田(のちの貴乃花)との一戦で寄り切られてしまう。
テレビの前で正座して見ていた私は「こんな若造に・・」とこぶしを握り、そしてその若造の父が「初代貴ノ花(のちの二子山親方)」であることを知る。
さらにその初代貴ノ花を引退に追い込んだのが若き千代の富士であったことも知り運命のめぐりあわせにガクゼンとしたのだった。

現役時代の二子山親方は私の記憶にはあまりない。
が、お気に入りの千代の富士が現役引退に追い込んだ初代貴ノ花。
その息子との一戦で現役を引退することになるなんて!
いやいや正確にいうと、5月場所2日目は千代の富士は勝ち、3日目だか4日日めだったか、同じ二子山軍団の貴闘力に負けた晩に引退を表明したのである。
「体力の限界・・・気力の限界・・・」で言葉がつまってしまった千代の富士関の涙を私はいまだに覚えている・・・ううう。
(でも貴闘力はひそかにお気に入りの力士で、この年に生まれた息子にその中から字をとってつけようと思ったほどだ)。

さて、連日のように、亡くなった二子山親方はじめ昭和の力士たちの若い頃の映像が流れる。
今朝などは藤田憲子さんの二人の息子たちを思うインタビューに朝から涙してしまった。
毅然としたお姿で、きっちりと言葉を選んでお話する元おかみさん。
あの若貴の母だもんなあ・・・とあらためてその偉大さに感心させられる。

それにつけても、まだ小さい若貴兄弟と親方とおかみさんがにこやかにしている映像、二子山親方現役時代の相撲を若き美智子さま、浩宮さま、礼宮さまが観戦する映像などは「昭和の時代」の空気をびしびしと伝えてくる。

その当時の誰が、のちの二子山親方の離婚や若貴兄弟の確執を予想できるだろう。
誰が、現在の皇室の閉塞した状況を予想できるだろう。
国技である大相撲は新鋭の若い力士たちによって引き継がれていくはずだったし、ふたりの男の子に恵まれた皇室は代々続いていくはずだった。
未来は限りなく輝いている、と誰もが思える時代だった。

日本中に高速道路がはりめぐらされ新幹線が次々と開通し、万博が開かれる。
家庭には新三種の神器とも呼ばれる「3C(カー・クーラー・カラーテレビ)」が備え付けられる。
がんばればがんばるほど豊かになっていく、そんな高度成長の夢と期待に満ち溢れていた時代だった。
今現在、物は豊かになり世の中は便利になった。
それはそれでものすごく幸せなこと。・・・なのだが。

「昭和」という言葉の響きが私にとって甘くせつなくノスタルジックに聞こえるのは、トシをとったせいかな。

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