きのう・きょうとダンナが休日出勤のため穏やかな朝です。
お天気もいいし風があるから洗濯物もよく乾く。
ずっと忙しかったから、この土日のダンナの出勤はありがたいわー。
英検に感謝。
きのうの朝もこんなふうにのんびりしていたところで主婦友からの電話。
ただならぬ様子で、「おばあちゃんち、大変だよ!はやく電話して!」。
・・・えっ!?
NHKスイッチオン。
目に飛び込んできたのは、震源地と震度を表す地図。
震源のバツ印は実家の近くで、さらに「震度6+」の表示!
・・・足が震えた。
新潟の山古志村みたいに、一瞬で家屋倒壊して父母が家の下敷きになってる!もうダメだ!と思った。
ああいうときは冷静なようでパニクってるんだな、と今思う。
電話を握ったのはいいけど、どこにかけたらいいのか一瞬で判断できなくて、息子のケータイ番号を表示してしまったり(←無意味)すぐ実家の番号が出せなかったり。
もちろん電話は不通。
ドキドキドキ・・・心臓が高鳴る。
実家よりさらに震源に近い妹の家の電話もケータイも不通。
どうすれば?
そういえばいつも充電器に置いたままのじーちゃんのケータイ!
固定電話のようなアナウンスは流れず、呼び出し音が。
・・・つながるか?
その間の長いこと・・・いろんなものが倒れて足の踏み場もなくなっている実家の居間の様子や、何かの下敷きになってもうすでに事切れている父や母の姿が頭をよぎる。
電話を握ったまま「神様っっ」と祈る。
実家は小さいながらも神社。
きっと神様が守ってくれるはず。
それにしても神様もこんなときだけ頼られて・・・まったくもう息子の受験のとき以来だよ。
数コールのちつながる。
「はい。もしもーし」いつもと変わらぬ父の声。
「どーした?地震っっっ!」。
「あーあ、なーんもだよー。物も落ぢながったし、物置のタマネギ、積んでだの転がって被害甚大だあー」と間延びした声で。
はあーーー・・・。よかったああ。
NHKはちょうど見てたけど、緊急地震速報は揺れてから出たそうで。
ただならぬ地鳴りがしたと思ったらズズズズっ!!と。
母も「今まで75年生きてきた中で一番」と言っていた。
私の中で「生きてきた中での一番の地震」は、その昔の私が高校生のときの宮城県沖地震。
授業は打ち切りになり下校になったが、町中の酒屋の酒ビンがみんなぐしゃぐしゃで酒くさかったり、ブロック塀や電柱が倒れて電線がバチバチしていたり・・・という光景がよみがえる。
家に戻ると、本棚から本がいっぱい落ちてたり食器棚の皿が割れていたり片づけが大変だった。
大きな余震が何度も続き、眠れない夜をすごした。
そのときよりすごかった、というのだから揺れは相当なものだったろう。
それでも、実家でも妹の家でも写真立てが落ちた程度だったというのは・・・?
考えてみれば、妹の家はまだ築10年たってないから耐震もちゃんとしているんだろうし、実家は古いけど作りはしっかりしていてリフォームして食器棚もタンスも作り付け。
老人世帯だからなるべくモノを置かないことにしているらしいし。
当時の宮城県沖地震で多くの人がブロック塀の下敷きで亡くなったため、ここ20年でブロック塀はずいぶんと撤去され生垣になった。
地震を経験した地域だからこそ、地震への備えは以前より考えられているんだろう。
宮城県沖地震はたまに起きるけど、あんな内陸の震源っていうのはめずらしい(と思う)。
実家のあたりからは温泉とか山菜取りでよく行く近場の観光地である山間が震源。
本来なら、父は同窓会できょうその温泉郷に行くはずだったとのこと。その同じ温泉郷の旅館では土砂で流されまだ行方不明の人が。
温泉郷に行く道路が倒壊し父が泊まるはずだった旅館も一部破損したので同窓会は延期になったらしい。
同窓会が金曜の夜だったら、地震で安否がわからなくなり母はパニックで心臓発作を起こしたかも、と言っていた。
ホントに今回は「震度6+」の表示に「・・死んだか?」と一瞬覚悟をしたほどだった。
今回は父のケータイがすぐ通じて安心だったが、もし通じなかったら・・・。
現地に行く、ったって新幹線も自動車道も不通。
いくら以前よりは備えがあったとしても地震だけはどうしようもない。
「地震カミナリ・・」とは昔の人はよく言ったもんだ。
今なら「地震カミナリ火事ママゴン」だそうだが。
追記
父が行くはずだったのは栗駒温泉郷で、場所は近いけれど駒の湯温泉とはまた別の温泉郷でした。
それでも、行っていれば道路が寸断されたのでヘリコプターでの救出になるところでした。
駒の湯温泉は300年の歴史がある知る人ぞ知る山間の秘湯だそう。ニュースの映像に心が痛みます。
お天気もいいし風があるから洗濯物もよく乾く。
ずっと忙しかったから、この土日のダンナの出勤はありがたいわー。
英検に感謝。
きのうの朝もこんなふうにのんびりしていたところで主婦友からの電話。
ただならぬ様子で、「おばあちゃんち、大変だよ!はやく電話して!」。
・・・えっ!?
NHKスイッチオン。
目に飛び込んできたのは、震源地と震度を表す地図。
震源のバツ印は実家の近くで、さらに「震度6+」の表示!
・・・足が震えた。
新潟の山古志村みたいに、一瞬で家屋倒壊して父母が家の下敷きになってる!もうダメだ!と思った。
ああいうときは冷静なようでパニクってるんだな、と今思う。
電話を握ったのはいいけど、どこにかけたらいいのか一瞬で判断できなくて、息子のケータイ番号を表示してしまったり(←無意味)すぐ実家の番号が出せなかったり。
もちろん電話は不通。
ドキドキドキ・・・心臓が高鳴る。
実家よりさらに震源に近い妹の家の電話もケータイも不通。
どうすれば?
そういえばいつも充電器に置いたままのじーちゃんのケータイ!
固定電話のようなアナウンスは流れず、呼び出し音が。
・・・つながるか?
その間の長いこと・・・いろんなものが倒れて足の踏み場もなくなっている実家の居間の様子や、何かの下敷きになってもうすでに事切れている父や母の姿が頭をよぎる。
電話を握ったまま「神様っっ」と祈る。
実家は小さいながらも神社。
きっと神様が守ってくれるはず。
それにしても神様もこんなときだけ頼られて・・・まったくもう息子の受験のとき以来だよ。
数コールのちつながる。
「はい。もしもーし」いつもと変わらぬ父の声。
「どーした?地震っっっ!」。
「あーあ、なーんもだよー。物も落ぢながったし、物置のタマネギ、積んでだの転がって被害甚大だあー」と間延びした声で。
はあーーー・・・。よかったああ。
NHKはちょうど見てたけど、緊急地震速報は揺れてから出たそうで。
ただならぬ地鳴りがしたと思ったらズズズズっ!!と。
母も「今まで75年生きてきた中で一番」と言っていた。
私の中で「生きてきた中での一番の地震」は、その昔の私が高校生のときの宮城県沖地震。
授業は打ち切りになり下校になったが、町中の酒屋の酒ビンがみんなぐしゃぐしゃで酒くさかったり、ブロック塀や電柱が倒れて電線がバチバチしていたり・・・という光景がよみがえる。
家に戻ると、本棚から本がいっぱい落ちてたり食器棚の皿が割れていたり片づけが大変だった。
大きな余震が何度も続き、眠れない夜をすごした。
そのときよりすごかった、というのだから揺れは相当なものだったろう。
それでも、実家でも妹の家でも写真立てが落ちた程度だったというのは・・・?
考えてみれば、妹の家はまだ築10年たってないから耐震もちゃんとしているんだろうし、実家は古いけど作りはしっかりしていてリフォームして食器棚もタンスも作り付け。
老人世帯だからなるべくモノを置かないことにしているらしいし。
当時の宮城県沖地震で多くの人がブロック塀の下敷きで亡くなったため、ここ20年でブロック塀はずいぶんと撤去され生垣になった。
地震を経験した地域だからこそ、地震への備えは以前より考えられているんだろう。
宮城県沖地震はたまに起きるけど、あんな内陸の震源っていうのはめずらしい(と思う)。
実家のあたりからは温泉とか山菜取りでよく行く近場の観光地である山間が震源。
本来なら、父は同窓会できょうその温泉郷に行くはずだったとのこと。その同じ温泉郷の旅館では土砂で流されまだ行方不明の人が。
温泉郷に行く道路が倒壊し父が泊まるはずだった旅館も一部破損したので同窓会は延期になったらしい。
同窓会が金曜の夜だったら、地震で安否がわからなくなり母はパニックで心臓発作を起こしたかも、と言っていた。
ホントに今回は「震度6+」の表示に「・・死んだか?」と一瞬覚悟をしたほどだった。
今回は父のケータイがすぐ通じて安心だったが、もし通じなかったら・・・。
現地に行く、ったって新幹線も自動車道も不通。
いくら以前よりは備えがあったとしても地震だけはどうしようもない。
「地震カミナリ・・」とは昔の人はよく言ったもんだ。
今なら「地震カミナリ火事ママゴン」だそうだが。
追記
父が行くはずだったのは栗駒温泉郷で、場所は近いけれど駒の湯温泉とはまた別の温泉郷でした。
それでも、行っていれば道路が寸断されたのでヘリコプターでの救出になるところでした。
駒の湯温泉は300年の歴史がある知る人ぞ知る山間の秘湯だそう。ニュースの映像に心が痛みます。
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