あたりまえだったこと
2009年3月11日 日常娘の受験が終わってすぐ、発表までの一週間の間。
急に思い立って実家に行ってきた。
お正月からずっと毎日母の病状が気にはなったが娘の受験があるから、と自分に言い訳していた。
悪い病状を見るのがこわい、という先延ばしの気持ちも少しあった。
それでも、日曜などに仕事に出て人のお世話をしていると「私は自分の親のめんどうも見ないで何してるんだろう?」とどうしようもない気持ちになり、ひとりで家事も通院もすべてやらなければいけない父を思うと胸がしめつけられる毎日だった。
娘の受験前、父と電話で話していたときのこと。「受験終わったらすぐ行こうと思ってたけど、なんか忙しくて。春休みになってからでもいいかなあ」と私が
言うと、父は「うんうん。だいじょうぶだから。ゆっくり来られるときでいいよ」と言っていた。
でもそんなことはなかった。ぜんぜんだいじょうぶじゃなかった。
実家の奥のカーテンが閉まった薄暗い部屋に寝ていた母は、私が知っている母とは全く別人だった。
「ごめんね。ごめんね。こんなになってしまって」と私の手を握ってずっと泣いていた。髪は白髪でばさばさになりすっかりやせてしまい顔色も悪く、調子が悪いからと風呂にも入っていなかった。
お正月のときは、体調は良くなかったといっても、普通に会話したしいつものしゃっきりとした母だった。
重い米袋も運ぼうとしていたし、みそや野菜を物置から出してきてダンボール箱に詰めてくれた。
正月明けのわずかな間に何がどうなればこんなふうになってしまうんだろう。
私や周りの人たちが知る母は、旧家の長女としての自覚からだろうが、いつだれが来てもいいようにとどんなときでも朝早く起きて身支度をととのえていた。
庭先や玄関をいつもきれいにしていたし、どんなにつらいことがあっても感情を表に出したり、グチや後ろ向きな言葉を吐いたりすることもなかった。
父とも滞在中いろいろな話をしたが、やっぱり三度の食事の支度や食材の買い物、母の通院のつきそいに追われていっぱいいっぱいだった。
地区の役員や家業で出かける機会も多かった父だが、最近はすべて断っているというのも胸が痛んだ。近くにいれば少しでも手助けができるのに。
2泊の短い時間、できるだけのことをした。
正月からやっていなかったという家の掃除。買い物・食事の用意。母の入浴介助・白髪染め。
時間がいくらあってもたりなかったが、どんなに働いても疲れることはなかった。ランナーズ・ハイならぬヘルパーズ・ハイ。
いつもやっているお仕事がとても役にたち「ああ介護の仕事やっていてよかった」としみじみ思った。
「家に人が入るのはいやだ」と母が言うものの「とりあえず申請だけでも」と介護保険も申請してきた。ケアマネージャーさんが決まれば父もいろいろと相談になる人ができて少しはいいだろうし。
父や母の姿を見て・・・不思議と感傷的になることはなく「とにかく父と母の助けになることをしなくちゃ」の思いだけで動いていた。
福祉に携わるものの使命感が優先されていた、というか、感情にストッパーがかかっていたというか。
家に戻れば、娘の受験の発表が控えていた。
落ちたと思ったので私立に手続きするお金を用意し、ああこのお金があれば何回実家に行けるだろう?と思った。
やっぱり電話じゃ様子なんてわからない。父に少しでも手助けが必要だ。もっと何度も行かなければ、と思った。
実家に行く前に「春休みになってからでいいか」と考えていた自分の気楽さにもあきれた。
1月からずっと重苦しい気持ちをかかえたままで、それでもとりあえず行って実際に様子を見て、やれることはやれて本当によかった。行ってよかった。
そして娘の県立合格の知らせ。
ずっと使命感にかられて動いていて気が張っていたから、涙なんか出なかったのに。
あとからあとからあふれてくる涙ってあるんだな。自分の気持ちとか意志と関係なくはらはらと流れ出る涙ってあるんだな。
娘にはちょっと悪くて申し訳ないから言わないけれど、合格したことのうれしさよりも県立に入ってくれてほっとした気持ち、かな。
きょうは、お正月に実家から積んできた玄米を精米しに行った。
精米したばかりの米はさらさらと白くてほんのり温かい。車に運ぶときに腕にかかえたその重みと温かさがせつない。
玄米を実家から持ち帰って精米する・・・そんなことももうなくなる。
お正月に母がタッパーに詰めてくれたみそや梅干もまだいつものように冷蔵庫にあるけど、なくなったら終わり。
「体の調子がよくなったまたお餅ついて送るからね」と言っていたが、それももうないんだろうな。
三月の娘の誕生日にはいつも色とりどりのお菓子やお手紙が送られてきたが、そういうことももうないんだ。
今まではごく普通のあたりまえだとおもっていたことがすべて。
母の娘や孫たちを思う気持ちだったということ。失って初めて気づかされる。
でも、こういう日常になれていくしかない。
急に思い立って実家に行ってきた。
お正月からずっと毎日母の病状が気にはなったが娘の受験があるから、と自分に言い訳していた。
悪い病状を見るのがこわい、という先延ばしの気持ちも少しあった。
それでも、日曜などに仕事に出て人のお世話をしていると「私は自分の親のめんどうも見ないで何してるんだろう?」とどうしようもない気持ちになり、ひとりで家事も通院もすべてやらなければいけない父を思うと胸がしめつけられる毎日だった。
娘の受験前、父と電話で話していたときのこと。「受験終わったらすぐ行こうと思ってたけど、なんか忙しくて。春休みになってからでもいいかなあ」と私が
言うと、父は「うんうん。だいじょうぶだから。ゆっくり来られるときでいいよ」と言っていた。
でもそんなことはなかった。ぜんぜんだいじょうぶじゃなかった。
実家の奥のカーテンが閉まった薄暗い部屋に寝ていた母は、私が知っている母とは全く別人だった。
「ごめんね。ごめんね。こんなになってしまって」と私の手を握ってずっと泣いていた。髪は白髪でばさばさになりすっかりやせてしまい顔色も悪く、調子が悪いからと風呂にも入っていなかった。
お正月のときは、体調は良くなかったといっても、普通に会話したしいつものしゃっきりとした母だった。
重い米袋も運ぼうとしていたし、みそや野菜を物置から出してきてダンボール箱に詰めてくれた。
正月明けのわずかな間に何がどうなればこんなふうになってしまうんだろう。
私や周りの人たちが知る母は、旧家の長女としての自覚からだろうが、いつだれが来てもいいようにとどんなときでも朝早く起きて身支度をととのえていた。
庭先や玄関をいつもきれいにしていたし、どんなにつらいことがあっても感情を表に出したり、グチや後ろ向きな言葉を吐いたりすることもなかった。
父とも滞在中いろいろな話をしたが、やっぱり三度の食事の支度や食材の買い物、母の通院のつきそいに追われていっぱいいっぱいだった。
地区の役員や家業で出かける機会も多かった父だが、最近はすべて断っているというのも胸が痛んだ。近くにいれば少しでも手助けができるのに。
2泊の短い時間、できるだけのことをした。
正月からやっていなかったという家の掃除。買い物・食事の用意。母の入浴介助・白髪染め。
時間がいくらあってもたりなかったが、どんなに働いても疲れることはなかった。ランナーズ・ハイならぬヘルパーズ・ハイ。
いつもやっているお仕事がとても役にたち「ああ介護の仕事やっていてよかった」としみじみ思った。
「家に人が入るのはいやだ」と母が言うものの「とりあえず申請だけでも」と介護保険も申請してきた。ケアマネージャーさんが決まれば父もいろいろと相談になる人ができて少しはいいだろうし。
父や母の姿を見て・・・不思議と感傷的になることはなく「とにかく父と母の助けになることをしなくちゃ」の思いだけで動いていた。
福祉に携わるものの使命感が優先されていた、というか、感情にストッパーがかかっていたというか。
家に戻れば、娘の受験の発表が控えていた。
落ちたと思ったので私立に手続きするお金を用意し、ああこのお金があれば何回実家に行けるだろう?と思った。
やっぱり電話じゃ様子なんてわからない。父に少しでも手助けが必要だ。もっと何度も行かなければ、と思った。
実家に行く前に「春休みになってからでいいか」と考えていた自分の気楽さにもあきれた。
1月からずっと重苦しい気持ちをかかえたままで、それでもとりあえず行って実際に様子を見て、やれることはやれて本当によかった。行ってよかった。
そして娘の県立合格の知らせ。
ずっと使命感にかられて動いていて気が張っていたから、涙なんか出なかったのに。
あとからあとからあふれてくる涙ってあるんだな。自分の気持ちとか意志と関係なくはらはらと流れ出る涙ってあるんだな。
娘にはちょっと悪くて申し訳ないから言わないけれど、合格したことのうれしさよりも県立に入ってくれてほっとした気持ち、かな。
きょうは、お正月に実家から積んできた玄米を精米しに行った。
精米したばかりの米はさらさらと白くてほんのり温かい。車に運ぶときに腕にかかえたその重みと温かさがせつない。
玄米を実家から持ち帰って精米する・・・そんなことももうなくなる。
お正月に母がタッパーに詰めてくれたみそや梅干もまだいつものように冷蔵庫にあるけど、なくなったら終わり。
「体の調子がよくなったまたお餅ついて送るからね」と言っていたが、それももうないんだろうな。
三月の娘の誕生日にはいつも色とりどりのお菓子やお手紙が送られてきたが、そういうことももうないんだ。
今まではごく普通のあたりまえだとおもっていたことがすべて。
母の娘や孫たちを思う気持ちだったということ。失って初めて気づかされる。
でも、こういう日常になれていくしかない。
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