ひさしぶりにお仕事に行った。
なんだかんだで1ヶ月近くお休みしたことになる。
シフト表を見て・・・いつも訪問しているTさんの名前がない。
新人のころから通っている一人暮らしのおばあちゃん。
ひさびさ行くのでどうしてるか気になってたのに。
室内飼いのわんこもいて、「ヘルパーさんの中ではあなたに一番なついている」と言われて私もいつもかわいがっていたのに。
「あれー。いつもだったら朝夕とシフト入ってるはずなのに、だれが行くのかな?しばらく休んでたから別の人が行くようになっちゃったかな?」と、シフト表のほかのスタッフのところを探してもTさんの名前がない。
年末だしショートステイ(施設のお泊りサービス)でも行ってるのか・・・と思いながら、連絡帳を見ると、
「T様。ご逝去されました」の文字。
・・・えっ!
「どうしたの?Tさん亡くなったんですか?」と社員さんに聞くと、
「そうなのよ・・・。夕方のヘルパーのごはんも食べて、いつもと変わりなかったのに。息子さんがたまたま夜行ったらソファに座ったまま意識がなくて。救急車は呼んだみたいなんだけど、救急隊員の方にそのときはもう心停止してるって言われたみたいで」と。
ああー・・・。
11月にお休みに入る前の最後のお仕事はTさん宅だった。
「じゃあまた来ますね」と帰ったのが最後になってしまった・・・。
私たちは告別式などに行けるわけではない。
表面上は、ただ何かの都合で「その家には二度と行かなくなる」という事実があるだけだ。
利用者さんが生きているときのままで時は止まり、記憶にとどまる。
こんなふうにして何人もの方々ときちんとお別れもしないで会えなくなっているが、その人たちはみんな私の中では「生きている。ただ、家に行かないから会えないだけ」。
家の前を通るときも、「こんにちは」とたずねればまだそこに以前のように出迎えてくれるような気がする。
きちんとお別れしていないからだ。
「亡くなったのよ」と聞かされて「ああ。亡くなったんだ」と悲しい気持ちにはなるけれど、その「死」は実感として響かない。
頭で「亡くなった。もう二度と会えない。もうあの家に行くこともない。悲しい」と理解はするけれど、心の中からわきあがる悲しみとは違うのだと思う。
きっと・・・
住んでいる人がいなくなった部屋のシンとした空気を感じたとき。
持ち主がいなくなりもう使われなくなったお茶碗やコップを見たとき。
もう二度とそでが通されることがないセーターや上着を見たとき。
そこで初めて感情がグググッと動くのだろうと思う・・・。
だれがが亡くなったときはきちんとお別れしたい。
なんだかこんなふうに何人もの人たちとお別れもできずそのままになるのは、ものすごく中ぶらりんの気持ちのままだ。
Tさんの穏やかなやさしい笑顔はすぐ思い出される。
もうこの世にいないことは信じられない。
お仕事で「老い」を目の当たりにし「死」もよくあることになってしまい、いいんだか悪いんだか。
なんだかんだで1ヶ月近くお休みしたことになる。
シフト表を見て・・・いつも訪問しているTさんの名前がない。
新人のころから通っている一人暮らしのおばあちゃん。
ひさびさ行くのでどうしてるか気になってたのに。
室内飼いのわんこもいて、「ヘルパーさんの中ではあなたに一番なついている」と言われて私もいつもかわいがっていたのに。
「あれー。いつもだったら朝夕とシフト入ってるはずなのに、だれが行くのかな?しばらく休んでたから別の人が行くようになっちゃったかな?」と、シフト表のほかのスタッフのところを探してもTさんの名前がない。
年末だしショートステイ(施設のお泊りサービス)でも行ってるのか・・・と思いながら、連絡帳を見ると、
「T様。ご逝去されました」の文字。
・・・えっ!
「どうしたの?Tさん亡くなったんですか?」と社員さんに聞くと、
「そうなのよ・・・。夕方のヘルパーのごはんも食べて、いつもと変わりなかったのに。息子さんがたまたま夜行ったらソファに座ったまま意識がなくて。救急車は呼んだみたいなんだけど、救急隊員の方にそのときはもう心停止してるって言われたみたいで」と。
ああー・・・。
11月にお休みに入る前の最後のお仕事はTさん宅だった。
「じゃあまた来ますね」と帰ったのが最後になってしまった・・・。
私たちは告別式などに行けるわけではない。
表面上は、ただ何かの都合で「その家には二度と行かなくなる」という事実があるだけだ。
利用者さんが生きているときのままで時は止まり、記憶にとどまる。
こんなふうにして何人もの方々ときちんとお別れもしないで会えなくなっているが、その人たちはみんな私の中では「生きている。ただ、家に行かないから会えないだけ」。
家の前を通るときも、「こんにちは」とたずねればまだそこに以前のように出迎えてくれるような気がする。
きちんとお別れしていないからだ。
「亡くなったのよ」と聞かされて「ああ。亡くなったんだ」と悲しい気持ちにはなるけれど、その「死」は実感として響かない。
頭で「亡くなった。もう二度と会えない。もうあの家に行くこともない。悲しい」と理解はするけれど、心の中からわきあがる悲しみとは違うのだと思う。
きっと・・・
住んでいる人がいなくなった部屋のシンとした空気を感じたとき。
持ち主がいなくなりもう使われなくなったお茶碗やコップを見たとき。
もう二度とそでが通されることがないセーターや上着を見たとき。
そこで初めて感情がグググッと動くのだろうと思う・・・。
だれがが亡くなったときはきちんとお別れしたい。
なんだかこんなふうに何人もの人たちとお別れもできずそのままになるのは、ものすごく中ぶらりんの気持ちのままだ。
Tさんの穏やかなやさしい笑顔はすぐ思い出される。
もうこの世にいないことは信じられない。
お仕事で「老い」を目の当たりにし「死」もよくあることになってしまい、いいんだか悪いんだか。
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