連休に実家に行った。
いつものことだが、この時期の東北はさまざまな花がいっせいに咲きそろいとてもとても美しい。

青い空を背景に梅と桜はちょうど満開。
雪柳・水仙・チューリップも咲き競う。
白と赤のハナミズキや赤紫のツツジも少しずつ花を開き始める。
芽吹き始めた新緑もまだまだ柔らかい薄緑色でみずみずしい。
道端にも畑にもあぜ道にもタンポポ。緑とのコントラストがきれい。
ヒバリ・ウグイスが鳴き、あちこちで薫風にはためくこいのぼり。
ほんとうに美しい季節だなあと毎年思う。

母が体調を崩してから1ヶ月に一度の訪問だったが、今回は震災のため2ヶ月あいた。
内陸なので震災の直接の被害はなかったと聞いたものの自分の目で直接確かめたわけでもなく、年寄りの二人暮らしのため心配でこの2ヶ月の長かったこと。

やっぱり東北新幹線は早い。
新幹線に貼ってある「がんばろう!東日本」のステッカーに感動・・・涙がにじむ。
テレビで見たひどかった仙台駅も何事もなかったように元通りになっている。
新幹線沿線を見る限り、かわらが落ちてブルーシートがかかっている家々が目に付く程度でいつもののどかな東北の風景だった。

ああ・・・よかった。これでいつでも行ける。つながっている。そう思える安心感。
新幹線が通っていないときは、地続きではないような心もとない不安感があったけれど。

駅から実家への道も特にそれほどの被害も目に付かず、大きな震災があったことなど一見信じられないようだった。
父も母も2月のときと特に変わりなく生活していて、実家も庭の石灯籠が落ちてわれていたくらいでほんとに震度6強だったの?と思うほど何事もなくまずは一安心。

が。
父も妹も近所のおじいちゃんおばあちゃんたちもみんなみんな地震のときのことを身振り手振り交えて語りたがった。
「ダダーンってなってズズズズ・・・って地鳴りがしてズズズズガガガガゴゴゴゴって!」
「こいづはただごとでねえって思った」
「だって立ってられねえんだもの!外見だら木がゆっさゆっさと揺れでだし」
「ガラスとか雨戸とかシャッターとか今までに聞いたこともないヤバい音でガタガタガタ・・・って!」
「地震のあともまあとにかく情報がなくて。テレビ消えたからどこでどんな被害があったかもわかんないし」
「雪降って寒かったーー」・・・。

地震後も「スーパーでもの買うのに小雪がちらつく中で1時間も並んでからやっと買えた」とか「寒くて手も足も冷え切る中でガソリンスタンドに5時間並んだ」とか、日常がなんの前触れもなく非日常になってしまったことをあれこれ聞いた。

そして話の中で、父も妹も被災地を見に行きたい気持ちがあることを知る。
父は若い頃、陸前高田近くに住んでいた時期があった。
昭和35年のチリ津波のときもそこにいて、がれき片付けなどして一歩ずつ復興する様子を見てきたという。
「おれももう少し若かったら被災地の様子でも見に行ぐがな?って気になんだけども」と。
妹も「いつも行った海がどうなったか見てきたいと思うけど、そんな物見遊山で行くとこじゃないと思うから」と。

確かにそうだ。興味本位の見物で行くところではない。
日々の生活の場をいきなり失ってしまった人々がそれでも何とかと日々をつないでいる場所だ。
押し流され積み上げられたがれきの中には今だ見つかっていない人々がいるかもしれない。
とは思うが、自分の目で見てくることも大切なのかな?とも思ったのも確か。

どうしようか?と迷いながらも父と妹と3人で行ってみることにした。
被災地で何か売っていたら買って少しは役立ってこようと思いながら。

・・・気仙沼の港。魚市場。岩井崎・御伊勢浜海水浴場・大谷海岸・小泉海岸。
みな変わり果てていた。
気仙沼の町の中はあちこちにがれきが積み上げられていた。
木造家屋は土台を残して流され、鉄筋の建物の1階部分は鉄枠のみ残る。
ななめにひしゃげた外灯や電話ボックス。
つぶれてひっくり返った車。本来あるはずのない町の中に横たわった船。
黒焦げの車や船もそのまま。
重油の匂いと港独特の潮と魚の混じった匂いが鼻をつく・・・。

いつも行った海水浴場は見事なまでにどこも何もなくなっていた。
砂浜も防潮堤もこんもりと茂った松林も海の家も・・・何もなかった。
あるのは海岸線のずっと奥から続くがれきのみ。
よく見ると学習机やブロックや人形などが泥で汚れたままあった。
がれきの上にはかもめがたくさんいて、のどかな鳴き声をあげていた。

一面のがれきを目の前にして、自分が幼いころ、そして子供たちが小さかった頃、何度も気仙沼湾の中の大島に行ったことを思い出す。
大島までのほんの何分かの船旅のあいだ、かもめたちはいっせいに船について飛んでくる。
よくしたもので船の乗り場にはかっぱえびせんが売っていて、それをお目当てにかもめたちはついてくるのだった。
かもめに向かって投げてやればかもめたちは器用に飛び込んできてキャッチする。
子供にも大人にも楽しい夏のひとときだった。
その大島行きの船乗り場もぐちゃぐちゃになっていた・・・。

私も父も妹もあまりの惨状に言葉も出ず。
思わず手をあわせるのみ。
津波は川をさかのぼってけっこう内陸部にまで被害を及ぼしていた。
海に行った帰りにいつも寄っていた店でワカメとすき昆布を買う。
「もう三陸産ワカメは全滅だね」とお店のおじさん。

ほんとうは現地でボランティアをして役に立てればいいのだけれども。
ちょうど連休中は新規のボランティアの受け入れはしていなかったのが残念。
迷彩服を着た自衛隊の方々やさまざまな県の警察の方々、ゼッケンをつけたボランティアの方々ががれきの片付けなどやっていた。

いつもの年より寒さが続いた被災地でも桜はきれいに咲き、春を告げていた。
いいことなのか悪いことなのか季節は人間の営みに関係なく確実にめぐりくる。
ちょうどきょうで震災から2ヶ月。




コメント

ありす
2011年5月11日14:56

お疲れ様でした。
阪神大震災の後、知らない人とも、知っている人ともとにかく「こんなんやった」「たいへんやった」「えらいことやった」ばかり言っていました。しゃべる、ということがいかにストレス発散になるか、ということですね。

雑誌、キレイですね。HPでみました。読んでみたいな・・

磯野コンブ
2011年5月14日15:16

☆ありすさま
しゃべることってやっぱり大切なんだなあー、と。
それにしても、あの一面のがれきを見ると復興には年単位の時間がかかりそうだ、とあらためて思いました。福島原発もまだ先が見えないしね・・・。
義援金・節電・被災地のものを買うなど、長い目で見てできることを続けていかなくちゃね。

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