貴重な平日休み・・・なのに午後から中学の授業参観・懇談会がある。
私にとっては「夏場の学校=サウナ」という図式ができているので、何も休みの日にまで学校には行きたくない。
連日の猛暑、きょうも予報では36度。
そんな数字を見るだけで気が遠くなりそう。
たまっていた家事をして汗をかいたのでシャワーをして朝の10時半からエアコンを入れる。快適。
いつもなら今頃は職場でサウナに蒸されてる時間・・・と思いあらためてエアコンとお休みに感謝しつつ、撮っておいた夏ドラマのビデオにざっと目を通す。
「セカチュウ」映像と音楽はいい感じではあるがヒロインはどうよ。これからの展開がどうなるか。
「君が思い出になる前に」記憶喪失の兄とそのコドモを引き取るなんて・・・リアリティのなさに「?」。あと一回だけ見よう。たぶん見なくなる予感あり。
「ラストプレゼント」あれっまた「離婚弁護士」?と思う出だしから一転して余命三ヶ月。泣かせる展開がわかっちゃいるけど母子モノには弱く涙がホロリ。俳優さんたちも良し。次回からがますます楽しみ。
「ウォーターボーイズ2」これは夏のお祭り。展開はきっと今までと同じで「水戸黄門」的なのでコドモたちとも安心して楽しめる。
あとは「人間の証明」だな。
ドラマは撮っといてビデオで見ることがほとんどなので、あまりチェックするドラマが多いとあわただしい。
週に2つか3つでいいんだけど。
さてあっという間に昼が来て、重い腰をあげなければいけなくなる。
何を着ていくか。こんな猛暑に対応した参観日ファッションは持ち合わせていない。
サウナ(学校)に行くならTシャツ・短パン。
首から下げた汗拭きタオルも必需品。
ちなみに私、この3点セット「アディダス」「プーマ」「ナイキ」ととりそろえてある。
一応、ファッションとかコーディネートに気をつかうってことで?・・・と朝、息子に言ったら「そんな格好で参観日来たら一生他人だから」と冷たい一言。
はいすいません。
中学校到着。
真っ昼間の太陽に照り付けられて自転車をこいでいったので着いたとたん汗がじわっと吹き出る。
昇降口で靴を脱いで階段を上がるだけで汗がたらたら・・・。
流れる汗をハンカチでぬぐいながら着いた息子の教室には「参観はLLへ」といううれしい文字が!
息子の中学は一般教室にこそエアコンはないが、LL教室や音楽室、理科室やパソコン室にはエアコンが入っているということ。
エアコンのきいたLL教室で、中学生たちはビートルズの歌を歌い、ハリーポッター英語版の映画を見る。
ほうー。確かに私たちのころもLLはあったが、今はテレビ画面もついていてハイテクって感じ。
授業後の全体会もエアコンのきいた視聴覚室で行われ、あまりに快適で途中寝てしまった・・・。
中学生は制服を着るだけでも暑そう。
しかも更衣室がないとかいう理由で、年間通して制服の下に体操着を着て登校する。
真夏でも授業をその格好で受ける・・ってのはキツいだろう。
自分の子が中学になってそういう現実を知るまでは、女子のハニワルック(制服のスカートの下に体操着のハーフパンツをはいているので、見える)などへんなのーと思っていたが、必要に迫られてのことだったのか。
エアコンの特別教室があるなら更衣室くらいなんとかすればいいのになあ。
「行くだけで疲れる」息子はそう言うが・・・娘の小学校や私の職場の小学校のほうが夏場の条件は過酷。
せめて普通教室の天井に扇風機でも回っていればずいぶんラクだろうと思うが。
私にとっては「夏場の学校=サウナ」という図式ができているので、何も休みの日にまで学校には行きたくない。
連日の猛暑、きょうも予報では36度。
そんな数字を見るだけで気が遠くなりそう。
たまっていた家事をして汗をかいたのでシャワーをして朝の10時半からエアコンを入れる。快適。
いつもなら今頃は職場でサウナに蒸されてる時間・・・と思いあらためてエアコンとお休みに感謝しつつ、撮っておいた夏ドラマのビデオにざっと目を通す。
「セカチュウ」映像と音楽はいい感じではあるがヒロインはどうよ。これからの展開がどうなるか。
「君が思い出になる前に」記憶喪失の兄とそのコドモを引き取るなんて・・・リアリティのなさに「?」。あと一回だけ見よう。たぶん見なくなる予感あり。
「ラストプレゼント」あれっまた「離婚弁護士」?と思う出だしから一転して余命三ヶ月。泣かせる展開がわかっちゃいるけど母子モノには弱く涙がホロリ。俳優さんたちも良し。次回からがますます楽しみ。
「ウォーターボーイズ2」これは夏のお祭り。展開はきっと今までと同じで「水戸黄門」的なのでコドモたちとも安心して楽しめる。
あとは「人間の証明」だな。
ドラマは撮っといてビデオで見ることがほとんどなので、あまりチェックするドラマが多いとあわただしい。
週に2つか3つでいいんだけど。
さてあっという間に昼が来て、重い腰をあげなければいけなくなる。
何を着ていくか。こんな猛暑に対応した参観日ファッションは持ち合わせていない。
サウナ(学校)に行くならTシャツ・短パン。
首から下げた汗拭きタオルも必需品。
ちなみに私、この3点セット「アディダス」「プーマ」「ナイキ」ととりそろえてある。
一応、ファッションとかコーディネートに気をつかうってことで?・・・と朝、息子に言ったら「そんな格好で参観日来たら一生他人だから」と冷たい一言。
はいすいません。
中学校到着。
真っ昼間の太陽に照り付けられて自転車をこいでいったので着いたとたん汗がじわっと吹き出る。
昇降口で靴を脱いで階段を上がるだけで汗がたらたら・・・。
流れる汗をハンカチでぬぐいながら着いた息子の教室には「参観はLLへ」といううれしい文字が!
息子の中学は一般教室にこそエアコンはないが、LL教室や音楽室、理科室やパソコン室にはエアコンが入っているということ。
エアコンのきいたLL教室で、中学生たちはビートルズの歌を歌い、ハリーポッター英語版の映画を見る。
ほうー。確かに私たちのころもLLはあったが、今はテレビ画面もついていてハイテクって感じ。
授業後の全体会もエアコンのきいた視聴覚室で行われ、あまりに快適で途中寝てしまった・・・。
中学生は制服を着るだけでも暑そう。
しかも更衣室がないとかいう理由で、年間通して制服の下に体操着を着て登校する。
真夏でも授業をその格好で受ける・・ってのはキツいだろう。
自分の子が中学になってそういう現実を知るまでは、女子のハニワルック(制服のスカートの下に体操着のハーフパンツをはいているので、見える)などへんなのーと思っていたが、必要に迫られてのことだったのか。
エアコンの特別教室があるなら更衣室くらいなんとかすればいいのになあ。
「行くだけで疲れる」息子はそう言うが・・・娘の小学校や私の職場の小学校のほうが夏場の条件は過酷。
せめて普通教室の天井に扇風機でも回っていればずいぶんラクだろうと思うが。
学校という場所は修行の場かと思うほど暑い。
(・・ある意味それは正しい)
私も仕事で行かなければ、オトナになってまでこんなに汗をかくことはなかっただろうと思うほど。
当たり前だろうがここらの公立の小中学校にはエアコンがない。
他市で「小中学校にエアコン導入」という新聞記事を読んでホントにうらめしく思う今年の暑さ。
職場の小学校でも、朝イチで全校ストレッチと朝マラソンがあるので朝の8時半には汗がだらだら。
パンツもブラも汗でぐっしょりになってしまう。
そのまま一日過ごすことになるので、Tシャツと短パンの代えは必需品。
頭や首にタオルでも巻きたいくらいだ。
先生たちも実用本位で、みなさん海にでも行くようなかっこうをしている。
もーとにかく普通教室はお子様たちの熱気でサウナ状態なのだ。
ただいるだけで汗が流れる。
昼近くなると窓から熱風が吹き込み、ますます教室の気温は上昇する。
本日の室温36度。・・・見るだけでぶったおれそう。
きょうは「着衣水泳」が行われた。
ここのところのうだるような暑さで、私も子供たちと同じく水泳の授業がとっても楽しみ。
別の行事でつぶれたりすると「えーーーっっ!なんでよっ!」と心の中で叫んでしまう。
低学年は水着の上にTシャツ短パンだけだが、高学年は長袖長ズボンにスニーカーでプールに入る。
水着だけのときと着衣状態のときの泳ぎにくさを比べ、水にぬれた服を脱ぐのがどんなに大変か体験する。
また、ペットボトルやスーパーの袋に空気を入れたものを持つことで体が浮くという体験をする。
スニーカーもけっこう空気を含んでいるので、体の力を抜くと足も浮かんでくる。
・・・と理屈はそうだが・・・。
お子様たちはばちゃばちゃと無駄に動くのでなかなか浮けない。
ペットボトルなど持っても、それに体をあずけるためには力を抜かなければいけないのだ。
私もやってみたが、一度頭が沈むのを覚悟して体の力を抜かないと浮かばない。
いきなり川や海に落ちたらパニックにおちいって力なんか抜けないだろう。
「私はきっとおぼれるなー。顔に水かかったら一発でだめだな」と言うと、6年の子「私も。ゴーグルないとおぼれちゃう!」。
するとそこらにいた子たち口々に「オレも!」「私も!」。
聞くと、ゴーグルがある状態だからこそ泳げるけれど、なければ一発でおぼれてしまうとのこと。
それもそうだな。
うちのコドモたちだってそうだ。
昔のように水慣れの第一歩として「水の中で目をあけましょう」なんて今はない。
「水に顔をつけられない」という子がいれば、「ゴーグルするといいよ」というアドバイスをする。
水着とゴーグルはセット。
着衣してようがしてまいが、そんなことよりゴーグルの有無が溺れる溺れないの分かれ目なのであった。
・・・ということを学んだだけでも意味があったか、着衣水泳。
(・・ある意味それは正しい)
私も仕事で行かなければ、オトナになってまでこんなに汗をかくことはなかっただろうと思うほど。
当たり前だろうがここらの公立の小中学校にはエアコンがない。
他市で「小中学校にエアコン導入」という新聞記事を読んでホントにうらめしく思う今年の暑さ。
職場の小学校でも、朝イチで全校ストレッチと朝マラソンがあるので朝の8時半には汗がだらだら。
パンツもブラも汗でぐっしょりになってしまう。
そのまま一日過ごすことになるので、Tシャツと短パンの代えは必需品。
頭や首にタオルでも巻きたいくらいだ。
先生たちも実用本位で、みなさん海にでも行くようなかっこうをしている。
もーとにかく普通教室はお子様たちの熱気でサウナ状態なのだ。
ただいるだけで汗が流れる。
昼近くなると窓から熱風が吹き込み、ますます教室の気温は上昇する。
本日の室温36度。・・・見るだけでぶったおれそう。
きょうは「着衣水泳」が行われた。
ここのところのうだるような暑さで、私も子供たちと同じく水泳の授業がとっても楽しみ。
別の行事でつぶれたりすると「えーーーっっ!なんでよっ!」と心の中で叫んでしまう。
低学年は水着の上にTシャツ短パンだけだが、高学年は長袖長ズボンにスニーカーでプールに入る。
水着だけのときと着衣状態のときの泳ぎにくさを比べ、水にぬれた服を脱ぐのがどんなに大変か体験する。
また、ペットボトルやスーパーの袋に空気を入れたものを持つことで体が浮くという体験をする。
スニーカーもけっこう空気を含んでいるので、体の力を抜くと足も浮かんでくる。
・・・と理屈はそうだが・・・。
お子様たちはばちゃばちゃと無駄に動くのでなかなか浮けない。
ペットボトルなど持っても、それに体をあずけるためには力を抜かなければいけないのだ。
私もやってみたが、一度頭が沈むのを覚悟して体の力を抜かないと浮かばない。
いきなり川や海に落ちたらパニックにおちいって力なんか抜けないだろう。
「私はきっとおぼれるなー。顔に水かかったら一発でだめだな」と言うと、6年の子「私も。ゴーグルないとおぼれちゃう!」。
するとそこらにいた子たち口々に「オレも!」「私も!」。
聞くと、ゴーグルがある状態だからこそ泳げるけれど、なければ一発でおぼれてしまうとのこと。
それもそうだな。
うちのコドモたちだってそうだ。
昔のように水慣れの第一歩として「水の中で目をあけましょう」なんて今はない。
「水に顔をつけられない」という子がいれば、「ゴーグルするといいよ」というアドバイスをする。
水着とゴーグルはセット。
着衣してようがしてまいが、そんなことよりゴーグルの有無が溺れる溺れないの分かれ目なのであった。
・・・ということを学んだだけでも意味があったか、着衣水泳。
サッカーチームOBの暑気払い大会がある。
明るいうちにバーベキューをしたあと、親たちは夜の部へなだれこむ。
息子が小学校時代、プラスにもマイナスにもかなりお世話になったサッカーチーム。
まあ、いろいろとあったからこそ母子ともに微妙な感情がうずまいていたチームだった。
チームのメンバーたちはそれぞれの中学に行ってもサッカーを続けている。
息子含めて何人かは別の部活へ進んだ。
他の子と争って勝たなければポジションを勝ち取ることができない。
体育系クラブにはつきものの当たり前のこと。
そしてそれは子供本人の実力のはずなのだが・・・。
小学生時代は、なぜか母たち本人の争いであるかのように燃える・・・そんな体質が私にはどうもついていけなかった。
というより、うちなどは早々にポジション争いから脱落していたおかげで、一歩距離を置いてみることができた。
息子の活躍のために一生懸命になる母たち。
のめり込むほどに、息子が試合に使ってもらえないと陰でグチを言う母たち。
もし息子がチームの中で活躍するような子だったら、きっと私も彼女たちのように毎週のようにグランドに出ていただろう。
うまい子が偉くてへたな子を軽く見る、そんなへんな優越感をも持ってしまっていたかもしれない。
そして、もしポジションがもらえるかどうかのボーダーラインの子だったら、母としてのねたみなどのマイナスの感情に支配されていたかもしれない。
「OB会」のお知らせが来たときは、正直言ってどうしようと思ったが行ってよかった。
「記憶」は、「時間」によって浄化され良い思い出だけが残る。
チームを離れて何ヶ月しかたっていないのに、なんだかメンバーの母たちやコーチたちがなつかしく同窓会みたいな楽しい雰囲気だった。
息子も初めは「行きにくいなー」などと言っていたが、友達と笑っている息子の顔を見ると、来てよかったなあと思えた。
以前までの微妙な人間関係や損得関係から「卒業」したチームOBの集まりは、同じ熱い時代を共有したというだけの関係。
まだ現役のサッカー部の母たちや子供たちにとってはどうだか知らないが。
母やコーチたちの「夜の部」では、いつものグループサウンズやピンクレディーのカラオケで盛り上がり、さらにヨン様や韓国スタアたちの話で盛り上がり・・・。
私はアルコールに弱く、目の前に「ビール」「ライムサワー」「ウーロン茶」「ジンジャーエール」などのグラスを並べ、一杯のサワーを茶やジュースなどとともに3時間かけて飲む、というペースなのだが、みなさんかなりお強い。
飲み放題なのでメニューも見ずに、ガンガン注文していた。
メニューをじっくり見ていたら、サワーにはなかなかしゃれたネーミングがほどこしてある。
その中で・・・「巨乳サワー」。
私はそのときすでに許容量を超えていたので、隣にいた主婦仲間に言ってみるが・・・「ちょっとこれってオーダー恥ずかしいよね」と引き気味。
でも気になるー。なんだろう、巨乳サワー。
すると近くにいたすっかり出来上がったコーチがオーダーしてくれる。
「巨乳サワーいっちょー!」そのでかい声に一同騒然。
「なになにっ巨乳サワーって」「あー磯野さんが飲みたいっていうからねー」・・・。
そして運ばれてきた「巨乳サワー」にみなさんの目は釘付け。
淡い紫色をした乳白色のドリンクの中で氷が揺れる。
コーチ、一口飲んで「まずっっっ!」。
私も全部は飲めないので少しずつまわし飲みする。
利き酒の結果、おそらく「巨峰+カルピス+サワー」だろうということに。
ウイスキーだの日本酒だの飲んでる男性陣には甘ったるくてまずかったかもしれないが、女性にはかなり飲み心地もよくジュースのよう。
一度オーダーしてしまうと巨乳サワーだろうがなんだろうが抵抗もなくなり、その後何度も「巨乳サワー!」のオーダーが飛び交っていた。
OB会、次回は年末か年明けだそう。
以前は気が重かったサッカーチーム関連の会が楽しみになるなんて、人生どう流れていくかわからないもんだなあ。
明るいうちにバーベキューをしたあと、親たちは夜の部へなだれこむ。
息子が小学校時代、プラスにもマイナスにもかなりお世話になったサッカーチーム。
まあ、いろいろとあったからこそ母子ともに微妙な感情がうずまいていたチームだった。
チームのメンバーたちはそれぞれの中学に行ってもサッカーを続けている。
息子含めて何人かは別の部活へ進んだ。
他の子と争って勝たなければポジションを勝ち取ることができない。
体育系クラブにはつきものの当たり前のこと。
そしてそれは子供本人の実力のはずなのだが・・・。
小学生時代は、なぜか母たち本人の争いであるかのように燃える・・・そんな体質が私にはどうもついていけなかった。
というより、うちなどは早々にポジション争いから脱落していたおかげで、一歩距離を置いてみることができた。
息子の活躍のために一生懸命になる母たち。
のめり込むほどに、息子が試合に使ってもらえないと陰でグチを言う母たち。
もし息子がチームの中で活躍するような子だったら、きっと私も彼女たちのように毎週のようにグランドに出ていただろう。
うまい子が偉くてへたな子を軽く見る、そんなへんな優越感をも持ってしまっていたかもしれない。
そして、もしポジションがもらえるかどうかのボーダーラインの子だったら、母としてのねたみなどのマイナスの感情に支配されていたかもしれない。
「OB会」のお知らせが来たときは、正直言ってどうしようと思ったが行ってよかった。
「記憶」は、「時間」によって浄化され良い思い出だけが残る。
チームを離れて何ヶ月しかたっていないのに、なんだかメンバーの母たちやコーチたちがなつかしく同窓会みたいな楽しい雰囲気だった。
息子も初めは「行きにくいなー」などと言っていたが、友達と笑っている息子の顔を見ると、来てよかったなあと思えた。
以前までの微妙な人間関係や損得関係から「卒業」したチームOBの集まりは、同じ熱い時代を共有したというだけの関係。
まだ現役のサッカー部の母たちや子供たちにとってはどうだか知らないが。
母やコーチたちの「夜の部」では、いつものグループサウンズやピンクレディーのカラオケで盛り上がり、さらにヨン様や韓国スタアたちの話で盛り上がり・・・。
私はアルコールに弱く、目の前に「ビール」「ライムサワー」「ウーロン茶」「ジンジャーエール」などのグラスを並べ、一杯のサワーを茶やジュースなどとともに3時間かけて飲む、というペースなのだが、みなさんかなりお強い。
飲み放題なのでメニューも見ずに、ガンガン注文していた。
メニューをじっくり見ていたら、サワーにはなかなかしゃれたネーミングがほどこしてある。
その中で・・・「巨乳サワー」。
私はそのときすでに許容量を超えていたので、隣にいた主婦仲間に言ってみるが・・・「ちょっとこれってオーダー恥ずかしいよね」と引き気味。
でも気になるー。なんだろう、巨乳サワー。
すると近くにいたすっかり出来上がったコーチがオーダーしてくれる。
「巨乳サワーいっちょー!」そのでかい声に一同騒然。
「なになにっ巨乳サワーって」「あー磯野さんが飲みたいっていうからねー」・・・。
そして運ばれてきた「巨乳サワー」にみなさんの目は釘付け。
淡い紫色をした乳白色のドリンクの中で氷が揺れる。
コーチ、一口飲んで「まずっっっ!」。
私も全部は飲めないので少しずつまわし飲みする。
利き酒の結果、おそらく「巨峰+カルピス+サワー」だろうということに。
ウイスキーだの日本酒だの飲んでる男性陣には甘ったるくてまずかったかもしれないが、女性にはかなり飲み心地もよくジュースのよう。
一度オーダーしてしまうと巨乳サワーだろうがなんだろうが抵抗もなくなり、その後何度も「巨乳サワー!」のオーダーが飛び交っていた。
OB会、次回は年末か年明けだそう。
以前は気が重かったサッカーチーム関連の会が楽しみになるなんて、人生どう流れていくかわからないもんだなあ。
以前もこんなタイトルの文章を書いたっけ。
このまま行くと今週ずっと書けるかどうかわからないので、とりあえず書きとめておこう。
・「ハリーポッターとアズカバンの囚人」を見る。シリーズ最高傑作!!
・掃除の神様が舞い降り、急に家中の掃除をする。神様は気まぐれ。今回を逃すとあとは一年先か二年先か。
・庭に隅っこにかぼちゃのつるが。ハム子の残したエサから発生したものと思われる。こういうのってうれしい。
・娘の授業参観。なんと教室の気温は33度!
・本日は主婦仲間とランチバイキング。「服装、失敗しないでね」と忠告される。・・・こうなったらマタニティかアッパッパーしかないのではないか。
ということで近々。
このまま行くと今週ずっと書けるかどうかわからないので、とりあえず書きとめておこう。
・「ハリーポッターとアズカバンの囚人」を見る。シリーズ最高傑作!!
・掃除の神様が舞い降り、急に家中の掃除をする。神様は気まぐれ。今回を逃すとあとは一年先か二年先か。
・庭に隅っこにかぼちゃのつるが。ハム子の残したエサから発生したものと思われる。こういうのってうれしい。
・娘の授業参観。なんと教室の気温は33度!
・本日は主婦仲間とランチバイキング。「服装、失敗しないでね」と忠告される。・・・こうなったらマタニティかアッパッパーしかないのではないか。
ということで近々。
「ウコツが痛い。部活でぶつけた」と息子が言う。
・・・ウコツ?
チコツなら知ってるけどなあ・・・と思い、「どこ?ウコツって」と聞くと、「ここ」と指差すのは右側の鎖骨。
「それってさあ、サコツっていうんだよ」と言うと「サコツは左。こっちは右だし!」ときっぱりと言い切る息子。
はいはい。
確かに右側だけど・・・それは左でも右でも鎖骨(サコツ)って言うんだよー。
息子はけっこう思い込みが激しい。
今までそれで何度も笑わせてもらった。
貯金通帳に記入してある「受取利子」の文字を見て、「リコさん(名字はウケトリ)っていう名前の女の人が自分の通帳にお金を入れてくれてる」と勝手に思っていたこと。
・・・リコさん、名字まであるとは。私の通帳にもたくさん入れてほしいもの。
駅の階段に表示してある「おり口(おりぐち)」を「おりろ(←命令形)」だと思っていて、「じゃあ『のぼり口(のぼりろ)』って何だろう」と思っていたこと。
・・・確かに漢字の「口」とカタカナの「ロ」の区別は小さいころはわかりにくいと思うが。
「おりろ」に対して「のぼりろ」っていったい・・・。
小学校の校歌に「♪幼きわれら手をとりて集えば」とあるところを「♪幼きわれら目をとじて集えば」だと卒業近くまで歌っていたこと。
・・・娘といっしょに校歌を歌って発覚。
幼い子たちが目を閉じながら集まってくる、ってヘンだと思わなかったのか。しかも卒業間近まで。
そんな話を思い出して「またひとつ追加されたね。気をつけなよ、思い込み大王」と笑う。
すると息子、「実はさー、小学校の3年くらいまで『アメリカには行ってもいいけど外国には絶対行きたくない』って思ってて」。
アメリカやイギリスは楽しそうだけど、本などで見ると「外国」とはドラキュラがいたりする恐ろしいところで、しかもコドモが誘拐されて売り飛ばされる先も「外国」というところで・・・。
友達が「外国に行きたいなあー」などと話しているのを聞いて「よくそんなこと思うな。オレは死んでも外国だけは行きたくない」と思っていたらしい。
外国、ってのも国の名前だと思ってたということか。
息子のそんな話を聞くと、もっと「笑える話」があるんじゃないかと心配半分・期待半分の気持ち。
とりあえず「ウコツ(右側の鎖骨)」に湿布を貼ってやった。
・・・ウコツ?
チコツなら知ってるけどなあ・・・と思い、「どこ?ウコツって」と聞くと、「ここ」と指差すのは右側の鎖骨。
「それってさあ、サコツっていうんだよ」と言うと「サコツは左。こっちは右だし!」ときっぱりと言い切る息子。
はいはい。
確かに右側だけど・・・それは左でも右でも鎖骨(サコツ)って言うんだよー。
息子はけっこう思い込みが激しい。
今までそれで何度も笑わせてもらった。
貯金通帳に記入してある「受取利子」の文字を見て、「リコさん(名字はウケトリ)っていう名前の女の人が自分の通帳にお金を入れてくれてる」と勝手に思っていたこと。
・・・リコさん、名字まであるとは。私の通帳にもたくさん入れてほしいもの。
駅の階段に表示してある「おり口(おりぐち)」を「おりろ(←命令形)」だと思っていて、「じゃあ『のぼり口(のぼりろ)』って何だろう」と思っていたこと。
・・・確かに漢字の「口」とカタカナの「ロ」の区別は小さいころはわかりにくいと思うが。
「おりろ」に対して「のぼりろ」っていったい・・・。
小学校の校歌に「♪幼きわれら手をとりて集えば」とあるところを「♪幼きわれら目をとじて集えば」だと卒業近くまで歌っていたこと。
・・・娘といっしょに校歌を歌って発覚。
幼い子たちが目を閉じながら集まってくる、ってヘンだと思わなかったのか。しかも卒業間近まで。
そんな話を思い出して「またひとつ追加されたね。気をつけなよ、思い込み大王」と笑う。
すると息子、「実はさー、小学校の3年くらいまで『アメリカには行ってもいいけど外国には絶対行きたくない』って思ってて」。
アメリカやイギリスは楽しそうだけど、本などで見ると「外国」とはドラキュラがいたりする恐ろしいところで、しかもコドモが誘拐されて売り飛ばされる先も「外国」というところで・・・。
友達が「外国に行きたいなあー」などと話しているのを聞いて「よくそんなこと思うな。オレは死んでも外国だけは行きたくない」と思っていたらしい。
外国、ってのも国の名前だと思ってたということか。
息子のそんな話を聞くと、もっと「笑える話」があるんじゃないかと心配半分・期待半分の気持ち。
とりあえず「ウコツ(右側の鎖骨)」に湿布を貼ってやった。
包みの中のフランスパン
2004年6月25日 日常近くに新しいパン屋がオープンする。
さっそく味をチェック。
そのパン屋さんはフランスパンメインで、明太子フランスやガーリックトーストなどフランスパンをアレンジしたものが多い。
フレンチトーストと書いてあるものもけっこう硬めの三角形。
おやつに食べた娘も「・・・ここってカリカリが売り?」と言うほど硬い。
さて、硬いパンを食べると思い出す話がある。
自分が小学生のときの道徳かなにかの教科書にのっていたお話なのだが・・・。
主人公の男性は必要に迫られて逃亡する。
出発するときおかあさんだったか誰かお世話になった人に「ハンカチにつつまれた一切れのフランスパン」を手渡される。
「食べるものがどうしてもない、というようないざというときまでこの包みを開けてはいけない」という言葉とともに。
主人公は服の内ポケットにその小さなフランスパンの包みをしまいこむ。
・・・くわしく覚えていないが、逃亡の旅は過酷なものでお金も底をつき精神的にも肉体的にも限界に近い行程だった。
寒さや飢えに襲われ、何度も主人公はそのフランスパンを食べてしまおうと思う。
が、「いざというときまで」というその言葉を守り、内ポケットの包みを手で触りフランスパンの固い感触を確かめることで「もう少しがんばろう」と歯をくいしばってつらさを乗り切る。
無事、目的地に到着したときに「自分がここまでがんばれたのはこのフランスパンのおかげだ」と感謝しながらその包みを開けると・・・・なんと包みの中身は木片であった!
主人公は涙を流し、「この木片が自分をささえてくれたのだ」とその木片に感謝した・・・というようなお話。
なにしろ30年前に読んだお話なので細部は違うかも。
でもこんなような話だった。
カリカリのパンを食べながら、娘にそんな話をし「こういうことってあるよね。実際は使わなくてもそれがあるだけで安心、っていうような。信じていればその気持ちだけで精神的に支えられる、っていうような」。
たとえば何、っていう具体例があればもっと説得力あるんだけどなーと思い「たとえばさー・・・」と考えていると・・・
娘、「学校帰る途中でうんこしたくなったときのティッシュ!痛さの波が押し寄せてきてあ゛――っなって・・・。そーゆーとき、ポケットの中のティッシュを触るだけで安心、とか」。
・・・ま、そーゆーことだね。
たとえが美しくないけどなあ。
それに実際問題として、たとえティッシュがあってもそのへんでできるかって言えばギモンだし。
今となってはういたハナシのひとつもない私だが、昔の恋人の電話番号をいつまでも持っている、ってのもそんなもんだろうか。
もう絶対自分からかけることはないしかかってきても出る気もないし番号だってとっくに変わってるかもしれないのに、それでも削除もせずに残しておく。
なんとなくそれを持っていればパンドラの箱の鍵を持っているようで平凡な日常も過ごしていける。そんなような。
と考えたりしていると娘、「おかあさん、あるじゃん!『ヘソクリ』・・・」。
・・・ああーそういえば・・・。
ヘソクリのしまい場所といえば全国的にタンスの中がトップらしいが、実は私も封筒に入れて奥のほうに入れてある。
タンスを開け閉めするたびにその白い封筒が目に入り、それがあるだけで安心。
それは本当に「いざというとき」のためのもので、封筒を見るだけで「よし。もう少しがまん」と思い、使わないでなんとかすごしたこともある。
ところが、ある日急な出費があり「しょうがないな」と封筒を開けてみると・・・ない!
コドモたちやダンナに疑惑の目を向けたりもしたが、よく考えてみれば自分で使ってあとで補充しようとしてそのままだったものだ。
娘、そんなことは覚えていなくてよし。
でもまあ、人間、そんなふうに心の支えがあれば窮地も切り抜けられる、というようなお話。
さて、肝心の新しいパン屋のお味はというと。
カリカリのガーリックトーストはたしかにおいしかったけど、娘は食べカスをそのへんにパラパラ落とすし、一度食べればいいやという食べ応えであった。
さっそく味をチェック。
そのパン屋さんはフランスパンメインで、明太子フランスやガーリックトーストなどフランスパンをアレンジしたものが多い。
フレンチトーストと書いてあるものもけっこう硬めの三角形。
おやつに食べた娘も「・・・ここってカリカリが売り?」と言うほど硬い。
さて、硬いパンを食べると思い出す話がある。
自分が小学生のときの道徳かなにかの教科書にのっていたお話なのだが・・・。
主人公の男性は必要に迫られて逃亡する。
出発するときおかあさんだったか誰かお世話になった人に「ハンカチにつつまれた一切れのフランスパン」を手渡される。
「食べるものがどうしてもない、というようないざというときまでこの包みを開けてはいけない」という言葉とともに。
主人公は服の内ポケットにその小さなフランスパンの包みをしまいこむ。
・・・くわしく覚えていないが、逃亡の旅は過酷なものでお金も底をつき精神的にも肉体的にも限界に近い行程だった。
寒さや飢えに襲われ、何度も主人公はそのフランスパンを食べてしまおうと思う。
が、「いざというときまで」というその言葉を守り、内ポケットの包みを手で触りフランスパンの固い感触を確かめることで「もう少しがんばろう」と歯をくいしばってつらさを乗り切る。
無事、目的地に到着したときに「自分がここまでがんばれたのはこのフランスパンのおかげだ」と感謝しながらその包みを開けると・・・・なんと包みの中身は木片であった!
主人公は涙を流し、「この木片が自分をささえてくれたのだ」とその木片に感謝した・・・というようなお話。
なにしろ30年前に読んだお話なので細部は違うかも。
でもこんなような話だった。
カリカリのパンを食べながら、娘にそんな話をし「こういうことってあるよね。実際は使わなくてもそれがあるだけで安心、っていうような。信じていればその気持ちだけで精神的に支えられる、っていうような」。
たとえば何、っていう具体例があればもっと説得力あるんだけどなーと思い「たとえばさー・・・」と考えていると・・・
娘、「学校帰る途中でうんこしたくなったときのティッシュ!痛さの波が押し寄せてきてあ゛――っなって・・・。そーゆーとき、ポケットの中のティッシュを触るだけで安心、とか」。
・・・ま、そーゆーことだね。
たとえが美しくないけどなあ。
それに実際問題として、たとえティッシュがあってもそのへんでできるかって言えばギモンだし。
今となってはういたハナシのひとつもない私だが、昔の恋人の電話番号をいつまでも持っている、ってのもそんなもんだろうか。
もう絶対自分からかけることはないしかかってきても出る気もないし番号だってとっくに変わってるかもしれないのに、それでも削除もせずに残しておく。
なんとなくそれを持っていればパンドラの箱の鍵を持っているようで平凡な日常も過ごしていける。そんなような。
と考えたりしていると娘、「おかあさん、あるじゃん!『ヘソクリ』・・・」。
・・・ああーそういえば・・・。
ヘソクリのしまい場所といえば全国的にタンスの中がトップらしいが、実は私も封筒に入れて奥のほうに入れてある。
タンスを開け閉めするたびにその白い封筒が目に入り、それがあるだけで安心。
それは本当に「いざというとき」のためのもので、封筒を見るだけで「よし。もう少しがまん」と思い、使わないでなんとかすごしたこともある。
ところが、ある日急な出費があり「しょうがないな」と封筒を開けてみると・・・ない!
コドモたちやダンナに疑惑の目を向けたりもしたが、よく考えてみれば自分で使ってあとで補充しようとしてそのままだったものだ。
娘、そんなことは覚えていなくてよし。
でもまあ、人間、そんなふうに心の支えがあれば窮地も切り抜けられる、というようなお話。
さて、肝心の新しいパン屋のお味はというと。
カリカリのガーリックトーストはたしかにおいしかったけど、娘は食べカスをそのへんにパラパラ落とすし、一度食べればいいやという食べ応えであった。
オレンジ封筒「号外」
2004年6月23日 日常きのうのこと。
ポルノグラフィティのファンクラブ会報「号外」が届く。
たまたま家にいたとき、ピンポーン♪
わざわざ郵便屋さんが手渡しで届ける、というのも変だし、封筒の表に赤字で「配達指定日・6月22日」と書いてあるのも今までにないこと。
ポルノのファンクラブ会報はオレンジ色の封筒に入っているので、私は「しあわせを運ぶオレンジ封筒」と呼んでいるのだが・・・。
その封筒には、今までとは違った特別な情報が入っているような気がして、急いであける。
なんと!
「Tamaちゃん脱退」のお知らせであった!
Tamaちゃん直筆(の印刷)のお手紙が入っている。
「更なる自身の追求のためポルノグラフィティを離れるという選択をしました。メンバーとも何度も話し合い、この思いを理解してもらって感謝しています」・・・・。
私はポルノの中でもアキヒトのファンなのだが、やっぱり「アキヒト・ハルイチ・Tama」の3人でポルノ。
元気なボーカルのアキヒト。
言葉の魔術師・ギターのハルイチ。
重厚なベースのTama。
ポルノの重鎮とも言うべきTamaちゃんがいなくなったら、なんだか「ゆず」みたいになってしまう感じ。
アーティストの方々は、方向性が違えばこういうこともあるだろうし、今年30になる彼らにとってもターニングポイントだったんだろうな。
3人で何度も話し合いを重ねたんだろうな。
知らない間にそんなことが進行していて、たくさん悩んで苦しんだ彼らの気持ちを思うとなんだかつらい。
が、悩んで決断したことだろう。
これからのポルノがどうなっていくのか、見届けたいし応援もしていきたい。
今年は「デビュー5周年」ということでコンサートもさぞ盛り上がるだろうと期待してたのに、もうステージ向かって左側のベースの位置にTamaちゃんが立つことはない。
残念である。
ポルノグラフィティのファンクラブ会報「号外」が届く。
たまたま家にいたとき、ピンポーン♪
わざわざ郵便屋さんが手渡しで届ける、というのも変だし、封筒の表に赤字で「配達指定日・6月22日」と書いてあるのも今までにないこと。
ポルノのファンクラブ会報はオレンジ色の封筒に入っているので、私は「しあわせを運ぶオレンジ封筒」と呼んでいるのだが・・・。
その封筒には、今までとは違った特別な情報が入っているような気がして、急いであける。
なんと!
「Tamaちゃん脱退」のお知らせであった!
Tamaちゃん直筆(の印刷)のお手紙が入っている。
「更なる自身の追求のためポルノグラフィティを離れるという選択をしました。メンバーとも何度も話し合い、この思いを理解してもらって感謝しています」・・・・。
私はポルノの中でもアキヒトのファンなのだが、やっぱり「アキヒト・ハルイチ・Tama」の3人でポルノ。
元気なボーカルのアキヒト。
言葉の魔術師・ギターのハルイチ。
重厚なベースのTama。
ポルノの重鎮とも言うべきTamaちゃんがいなくなったら、なんだか「ゆず」みたいになってしまう感じ。
アーティストの方々は、方向性が違えばこういうこともあるだろうし、今年30になる彼らにとってもターニングポイントだったんだろうな。
3人で何度も話し合いを重ねたんだろうな。
知らない間にそんなことが進行していて、たくさん悩んで苦しんだ彼らの気持ちを思うとなんだかつらい。
が、悩んで決断したことだろう。
これからのポルノがどうなっていくのか、見届けたいし応援もしていきたい。
今年は「デビュー5周年」ということでコンサートもさぞ盛り上がるだろうと期待してたのに、もうステージ向かって左側のベースの位置にTamaちゃんが立つことはない。
残念である。
娘とお出かけ「スターウォーズ」展
2004年6月21日 日常日曜日。
上野の国立科学博物館へ「スターウォーズ サイエンスアンドアート」を見に行く。
27年来のスターウォーズファンの私には見逃せない催しで、京都でやってるというときから絶対行く!と決めていたもの。
スターウォーズに関しては幼稚園児のころから私に仕込まれ、今では記憶力がいい分私よりよく覚えていていっぱしのウンチクを語るようになった息子と行くはずだったのだが・・・。
私も春は忙しかったし息子ともなかなか都合が合わずに最終日になってしまった。
チケットも2枚買ってあった。
・・・が、行きたいけど日曜は剣道の道場もあるし、何よりも「おかあさんといっしょにお出かけ」なんてオトコの沽券に関わるという微妙なお年頃の中学生になってしまった息子。
小学生のころまで映画だって連れ立って出かけていたのに・・・まあ少しはオトナになったのねと思う。
かわりに「上野?行く行く!」とはりきる娘。
息子ならその価値を共有できるだろうが、娘にスターウォーズ展は「猫に小判・豚に真珠」。
息子となら過去のスターウォーズ全作品、それぞれ3回以上ずつ見たが・・・はたして娘はどの程度見て知っているのか。
子供アナキンが出演したポッドレースのシーンくらいは覚えているかな。
時間前に科学博物館到着。
わくわくしながら科博地下特別展示場に一歩足を踏み入れると・・・そこはもう「スターウォーズ」の世界!!
照明を落とした宇宙の雰囲気にあのスターウォーズのテーマ音楽が鳴り響く!
入ってすぐ横には旧3部作の一作目のオープニングに画面いっぱいばばーんと登場するスターデストロイヤーのでかい模型。
正面では映画撮影に使われたというR2D2とC3POがお出迎えしてくれてるのだ!もうこれだけで大感激。
数々のルークの衣装、ソロ船長やレイヤ姫の衣装、チャーバッカの着ぐるみ(?)、トゥルーパーやボバフェットやジャバ・ザ・ハット。
そして奥のほうに鎮座ましますマスター・ヨーダ!
「ああーやっと会えたのねー」という感激いっぱい、うれしくて思わず鳥肌が立ってしまうのであった。
要所要所で科学的に説明もつけてあったり映画のそれぞれのシーンを流していたり。
娘と来たことなど忘れてどっぷりとスターウォーズの世界にひたっていると・・・娘、「おかあさん、目がキラキラしてるよー」。
「ほら、あの人たちも」という娘の言葉に少し我に返り、どんな人たちが来ているのか会場を見渡す。
すると私と同世代の方々が、やはり同じように目からキラキラビームを発してソロ船長のミレニアムファルコン号や「ジェダイの復讐」で森の中でチェイスをくりひろげたスピーダーを見つめている。
うーん。同じ匂いを感じる・・・。
そしてその父母に仕込まれたと見られる、「これ知ってるー」と冷凍されたソロ船長を前にウンチクを語る連れの子供たち。ふーむ。
残念だなあ・・・アナキンとセブルバのポッドレーサーや「エピソード2」の初めのほうに出てくる黄色いアナキンのスピーダー、息子に見せたかったよ。
「エピソード1・2」関連では無駄に豪華なアミダラ姫の衣装が目を引く。
一着何百万か知らないが、次々とお召しかえしたため一着あたりの登場時間はそんなに多くないし、そのため新品同様。
もったいない・・・。
さて、こんな展示会にはつきものの「グッズコーナー」。
買う気満々で行ったにもかかわらず何も購入せず。
だって「適当」なものがないんだもん。
売る気あるのか?って感じ。
ポストカードやクリアファイルはいらないし、1000円以内でちょっとしゃれたボールペンなどあれば買おうと思ってたのに。
「ケース入りマスターヨーダ人形・ライトセーバー付10万円」、いいけど高すぎ。
光るボールペン3800円、これもちょっと。
ジェダイ歴代の戦士たちの「ライトセーバー2万6千円」・・・これなどは重厚感もありかなりほしい一品だった。
うちにもルークやダースモール、アナキン、オビワンのライトセーバーはある。
音も出るし光も出るが、「といざらす」でそれぞれ2500円程度で購入したオモチャ。
しかもジェダイの戦士ごっこのため傷がついていたりガムテープで補修してあったり。
持ち手が金属のこの本格派ライトセーバー、息子がこの場にいたら勢いで購入したかもしれない。
「スターウォーズ」展のあとは、そのまま娘と科学博物館をあちこち見学して、通りすがりの上野公園で大道芸に笑ったりハラハラしたり。
アメ横をぶらぶらして帰ったのは夕方だった。
考えてみれば娘とふたりでの買い物目的以外の「お出かけ」なんて初めてかもしれない。
息子と行くと「映画を見る」「目的のものを買う」など、その出かける目的が終了するとすぐ「帰る、帰る」とうるさい。
外に行くと、表情もあまりなく特に何かしゃべるわけでもないし。
ぶらぶらする、とか何かを食べてくる、とかそんなことなし。
ダンナと出かけても同じく。
「じゃまなオトコたちがいなくてよかったね。楽しかったね。また行こうね。東京」と娘。
「渋谷に行きたい」なんて言われたらどうしよー。
それこそ20年も足を踏み入れてないなあ。予習してから行かなくちゃ。
スターウォーズの展示そのものは息子にも見せたかったと思ったが、娘と出かけて楽しい一日だった。
☆上野「国立科学博物館」と「西郷さんの銅像」写真あります。
上野の国立科学博物館へ「スターウォーズ サイエンスアンドアート」を見に行く。
27年来のスターウォーズファンの私には見逃せない催しで、京都でやってるというときから絶対行く!と決めていたもの。
スターウォーズに関しては幼稚園児のころから私に仕込まれ、今では記憶力がいい分私よりよく覚えていていっぱしのウンチクを語るようになった息子と行くはずだったのだが・・・。
私も春は忙しかったし息子ともなかなか都合が合わずに最終日になってしまった。
チケットも2枚買ってあった。
・・・が、行きたいけど日曜は剣道の道場もあるし、何よりも「おかあさんといっしょにお出かけ」なんてオトコの沽券に関わるという微妙なお年頃の中学生になってしまった息子。
小学生のころまで映画だって連れ立って出かけていたのに・・・まあ少しはオトナになったのねと思う。
かわりに「上野?行く行く!」とはりきる娘。
息子ならその価値を共有できるだろうが、娘にスターウォーズ展は「猫に小判・豚に真珠」。
息子となら過去のスターウォーズ全作品、それぞれ3回以上ずつ見たが・・・はたして娘はどの程度見て知っているのか。
子供アナキンが出演したポッドレースのシーンくらいは覚えているかな。
時間前に科学博物館到着。
わくわくしながら科博地下特別展示場に一歩足を踏み入れると・・・そこはもう「スターウォーズ」の世界!!
照明を落とした宇宙の雰囲気にあのスターウォーズのテーマ音楽が鳴り響く!
入ってすぐ横には旧3部作の一作目のオープニングに画面いっぱいばばーんと登場するスターデストロイヤーのでかい模型。
正面では映画撮影に使われたというR2D2とC3POがお出迎えしてくれてるのだ!もうこれだけで大感激。
数々のルークの衣装、ソロ船長やレイヤ姫の衣装、チャーバッカの着ぐるみ(?)、トゥルーパーやボバフェットやジャバ・ザ・ハット。
そして奥のほうに鎮座ましますマスター・ヨーダ!
「ああーやっと会えたのねー」という感激いっぱい、うれしくて思わず鳥肌が立ってしまうのであった。
要所要所で科学的に説明もつけてあったり映画のそれぞれのシーンを流していたり。
娘と来たことなど忘れてどっぷりとスターウォーズの世界にひたっていると・・・娘、「おかあさん、目がキラキラしてるよー」。
「ほら、あの人たちも」という娘の言葉に少し我に返り、どんな人たちが来ているのか会場を見渡す。
すると私と同世代の方々が、やはり同じように目からキラキラビームを発してソロ船長のミレニアムファルコン号や「ジェダイの復讐」で森の中でチェイスをくりひろげたスピーダーを見つめている。
うーん。同じ匂いを感じる・・・。
そしてその父母に仕込まれたと見られる、「これ知ってるー」と冷凍されたソロ船長を前にウンチクを語る連れの子供たち。ふーむ。
残念だなあ・・・アナキンとセブルバのポッドレーサーや「エピソード2」の初めのほうに出てくる黄色いアナキンのスピーダー、息子に見せたかったよ。
「エピソード1・2」関連では無駄に豪華なアミダラ姫の衣装が目を引く。
一着何百万か知らないが、次々とお召しかえしたため一着あたりの登場時間はそんなに多くないし、そのため新品同様。
もったいない・・・。
さて、こんな展示会にはつきものの「グッズコーナー」。
買う気満々で行ったにもかかわらず何も購入せず。
だって「適当」なものがないんだもん。
売る気あるのか?って感じ。
ポストカードやクリアファイルはいらないし、1000円以内でちょっとしゃれたボールペンなどあれば買おうと思ってたのに。
「ケース入りマスターヨーダ人形・ライトセーバー付10万円」、いいけど高すぎ。
光るボールペン3800円、これもちょっと。
ジェダイ歴代の戦士たちの「ライトセーバー2万6千円」・・・これなどは重厚感もありかなりほしい一品だった。
うちにもルークやダースモール、アナキン、オビワンのライトセーバーはある。
音も出るし光も出るが、「といざらす」でそれぞれ2500円程度で購入したオモチャ。
しかもジェダイの戦士ごっこのため傷がついていたりガムテープで補修してあったり。
持ち手が金属のこの本格派ライトセーバー、息子がこの場にいたら勢いで購入したかもしれない。
「スターウォーズ」展のあとは、そのまま娘と科学博物館をあちこち見学して、通りすがりの上野公園で大道芸に笑ったりハラハラしたり。
アメ横をぶらぶらして帰ったのは夕方だった。
考えてみれば娘とふたりでの買い物目的以外の「お出かけ」なんて初めてかもしれない。
息子と行くと「映画を見る」「目的のものを買う」など、その出かける目的が終了するとすぐ「帰る、帰る」とうるさい。
外に行くと、表情もあまりなく特に何かしゃべるわけでもないし。
ぶらぶらする、とか何かを食べてくる、とかそんなことなし。
ダンナと出かけても同じく。
「じゃまなオトコたちがいなくてよかったね。楽しかったね。また行こうね。東京」と娘。
「渋谷に行きたい」なんて言われたらどうしよー。
それこそ20年も足を踏み入れてないなあ。予習してから行かなくちゃ。
スターウォーズの展示そのものは息子にも見せたかったと思ったが、娘と出かけて楽しい一日だった。
☆上野「国立科学博物館」と「西郷さんの銅像」写真あります。
実家の母と電話で話していたときのこと。
最近のワイドショーにはあきれる、という話になる。
母が言う「最近」というのはいつのことか不明だし、私が昼間からテレビをみることはまずない。
だから真偽のほどはわからないのだが、母がいうには「ヨン様関係のくだらない情報が多すぎる」とのこと。
母はBSの「冬のソナタ」からのヨン様ファン。
「そのころは情報がなくてどっぷりと夢を見られた」のだそうだ。
最近では週刊誌にもヨンさま関係の情報が載らないことはなく、「ヨン様はチヂミ売りの少年だった」とか「整形天国の韓国。子供のころの写真と今のヨン様をくらべると違いすぎる」とか、確かにファンにそのまま「夢見る乙女」でいさせないような現実があれこれ暴露されている。
そして、昔の出演作でのぜんぜんあかぬけてないヨン様や今の「スキャンダル」の妖艶な流し目のヨン様・・・。
おまけに、母が言うには来日した生ヨン様が限りなくイメージをぶちこわした、とのこと。
母にとっては「冬ソナ」のミニョンさんのイメージだけでいいのに、それ以外の雑多な情報が入りすぎたために、今地上波で「冬ソナ」は見ていても現実に引き戻されて「酔えない」というのだ。
「BS冬ソナ」から入った母の茶飲み仲間も同じことを言って嘆いているという。
ははーんなるほどね、と母の気持ちはよくわかる。
私は「ヨン様来日」という情報番組で初めてじっくりとヨン様を見た。
生ヨン様から入ったので、最初の素直な感想は「なーんだ。騒がれていた微笑の貴公子ってこの程度?」・・・。
母や主婦仲間が「冬ソナ」にかなりのめりこんでいたし社会現象にもなっていたのが正直よくわからなかった。
その後、「なぜ?」と思い、週刊誌や雑誌を読んでみる。
すると「ヨン様の歯並びは不自然」だのなんだのかんだのくだらない情報。
そして新作「スキャンダル」では腰使いもあやしいプレイボーイの役、とかいう情報。
ふーん・・・と思いつつ、NHK「冬ソナ」を見る。
そして理解するのである。
母はじめ多くの女性たちがのめり込んで恋しているのはヨン様その人ではなく、冬ソナのミニョン(またはチュンサン)であることを。
ミニョンさん、かっこよすぎるのだ!
髪形も服装も・・・立ち姿までもが風情があり笑顔も限りなくさわやか。
それは週刊誌などで見かける生ヨン様ではなく・・・下半身や下心などまったく持ち合わせていないかのような清潔感あふれるミニョンさん。
愛の言葉やいいセリフなどのここぞというときにはアップになり、まさにテレビを見ている人に語りかけてくれるかのよう。
「愛しています」「道に迷ったときはポラリス(北極星)を探して」「自分で選択できないときは腕を引かれたほうに行ってみるのもいい」。
などなど、いつでも自分を全身全霊で受け止めてくれる理想の男性像がそこにはあった。
そしてポロポロリン♪というあのピアノのメロディがかぶると・・・これにはさすがに私も胸がキュンとなる。
思わず夜中にテレビの前に正座してしまうのであった。
雑多な情報から入ったヨン様ファンではない私でさえそうなのだから、なんの情報もなくいきなり「BS冬ソナ」から入った方々はさぞのめりこんだことだろう。
ファンならどんな小さな情報でも知りたいもの・・というわけではない。
自分の心の中で作り上げた理想像をそのままそっとしておいてほしいときだってある。
70のばーさんの密かな楽しみを奪うとはワイドショーも酷なことをするものである。
最近のワイドショーにはあきれる、という話になる。
母が言う「最近」というのはいつのことか不明だし、私が昼間からテレビをみることはまずない。
だから真偽のほどはわからないのだが、母がいうには「ヨン様関係のくだらない情報が多すぎる」とのこと。
母はBSの「冬のソナタ」からのヨン様ファン。
「そのころは情報がなくてどっぷりと夢を見られた」のだそうだ。
最近では週刊誌にもヨンさま関係の情報が載らないことはなく、「ヨン様はチヂミ売りの少年だった」とか「整形天国の韓国。子供のころの写真と今のヨン様をくらべると違いすぎる」とか、確かにファンにそのまま「夢見る乙女」でいさせないような現実があれこれ暴露されている。
そして、昔の出演作でのぜんぜんあかぬけてないヨン様や今の「スキャンダル」の妖艶な流し目のヨン様・・・。
おまけに、母が言うには来日した生ヨン様が限りなくイメージをぶちこわした、とのこと。
母にとっては「冬ソナ」のミニョンさんのイメージだけでいいのに、それ以外の雑多な情報が入りすぎたために、今地上波で「冬ソナ」は見ていても現実に引き戻されて「酔えない」というのだ。
「BS冬ソナ」から入った母の茶飲み仲間も同じことを言って嘆いているという。
ははーんなるほどね、と母の気持ちはよくわかる。
私は「ヨン様来日」という情報番組で初めてじっくりとヨン様を見た。
生ヨン様から入ったので、最初の素直な感想は「なーんだ。騒がれていた微笑の貴公子ってこの程度?」・・・。
母や主婦仲間が「冬ソナ」にかなりのめりこんでいたし社会現象にもなっていたのが正直よくわからなかった。
その後、「なぜ?」と思い、週刊誌や雑誌を読んでみる。
すると「ヨン様の歯並びは不自然」だのなんだのかんだのくだらない情報。
そして新作「スキャンダル」では腰使いもあやしいプレイボーイの役、とかいう情報。
ふーん・・・と思いつつ、NHK「冬ソナ」を見る。
そして理解するのである。
母はじめ多くの女性たちがのめり込んで恋しているのはヨン様その人ではなく、冬ソナのミニョン(またはチュンサン)であることを。
ミニョンさん、かっこよすぎるのだ!
髪形も服装も・・・立ち姿までもが風情があり笑顔も限りなくさわやか。
それは週刊誌などで見かける生ヨン様ではなく・・・下半身や下心などまったく持ち合わせていないかのような清潔感あふれるミニョンさん。
愛の言葉やいいセリフなどのここぞというときにはアップになり、まさにテレビを見ている人に語りかけてくれるかのよう。
「愛しています」「道に迷ったときはポラリス(北極星)を探して」「自分で選択できないときは腕を引かれたほうに行ってみるのもいい」。
などなど、いつでも自分を全身全霊で受け止めてくれる理想の男性像がそこにはあった。
そしてポロポロリン♪というあのピアノのメロディがかぶると・・・これにはさすがに私も胸がキュンとなる。
思わず夜中にテレビの前に正座してしまうのであった。
雑多な情報から入ったヨン様ファンではない私でさえそうなのだから、なんの情報もなくいきなり「BS冬ソナ」から入った方々はさぞのめりこんだことだろう。
ファンならどんな小さな情報でも知りたいもの・・というわけではない。
自分の心の中で作り上げた理想像をそのままそっとしておいてほしいときだってある。
70のばーさんの密かな楽しみを奪うとはワイドショーも酷なことをするものである。
娘の歯が抜ける。
思えば「コドモの歯が抜ける」のはひさしぶり。
そういえば、息子の歯はもう全部生え変わってしまったのだろうか。
最近、「歯が抜けた」なんて聞かないな。
娘の抜けた奥歯を手に乗せしみじみと見る。
この歯はいつ生えたんだっけ、娘が幼いころからいっしょにきょうまで過ごしたんだな。
お役目、ごくろうさま。ありがとう。
生え変わりのために抜けた子供の歯というものは虫歯もないし根もないから小さくてかわいらしい。
抜いた親知らずなどの根がしっかりとある不気味な大人の歯と比べると、つるつるしていてまるっこい。
コドモたちが幼稚園・小学校低学年のころは歯の生え変わりの時期なので、息子か娘の抜けた歯をしょっちゅう目にしていた。
「おかあさん!見て」とうれしそうに手に乗せて見せてくれたり、にーっと前歯のない顔で笑ったりするコドモたちの様子は今も思い浮かぶ。
一本だけ抜けた前歯のすきまにストローをはさんで「歯をとじてても飲める」なんて得意そうにジュースを飲んだり。
二人同時に同じ場所の歯が抜けたこともあった。
私は自分が子供のころそうしていたから、コドモたちの歯が抜けるたび「いい歯が生えますように!」といいながら投げさせる。
上の歯なら2階のベランダから下に向かって、下の歯なら庭から上に向かって。
幼いころはなかなか遠くまで歯を飛ばせなかった娘も、今ではコントロールもよくけっこう遠くまで弧を描けるようになった。
職場の小学校で聞いた話だが、最近は子供の抜けた歯を箱に入れたりして残しておくようで・・・。
「ディズニーランドのチョコの缶に入れてるの」とか「ガチャポンのカプセルにためてる」とか、小学生たちが教えてくれる。
「えっ。自分でためてるの?」というと「ママが引き出しにしまってる」。
もちろん昔ながらに外に投げている子もいたが、そのとき聞いた半数の子たちが「秘密の箱にためてる」という答え。
考えてみれば、子供の歯なんて母からすればきれいでかわいいものなので「記念」にとっておきたい、とも思うだろう。
私もその話を聞いて「あーとっとけばよかったかなあ」と少し後悔した。
でも、引き出しの中の箱を開けるとガチャポンのカプセルに抜けた歯がコロコロ・・・ちょっとブキミかもしれないな。
思えば「コドモの歯が抜ける」のはひさしぶり。
そういえば、息子の歯はもう全部生え変わってしまったのだろうか。
最近、「歯が抜けた」なんて聞かないな。
娘の抜けた奥歯を手に乗せしみじみと見る。
この歯はいつ生えたんだっけ、娘が幼いころからいっしょにきょうまで過ごしたんだな。
お役目、ごくろうさま。ありがとう。
生え変わりのために抜けた子供の歯というものは虫歯もないし根もないから小さくてかわいらしい。
抜いた親知らずなどの根がしっかりとある不気味な大人の歯と比べると、つるつるしていてまるっこい。
コドモたちが幼稚園・小学校低学年のころは歯の生え変わりの時期なので、息子か娘の抜けた歯をしょっちゅう目にしていた。
「おかあさん!見て」とうれしそうに手に乗せて見せてくれたり、にーっと前歯のない顔で笑ったりするコドモたちの様子は今も思い浮かぶ。
一本だけ抜けた前歯のすきまにストローをはさんで「歯をとじてても飲める」なんて得意そうにジュースを飲んだり。
二人同時に同じ場所の歯が抜けたこともあった。
私は自分が子供のころそうしていたから、コドモたちの歯が抜けるたび「いい歯が生えますように!」といいながら投げさせる。
上の歯なら2階のベランダから下に向かって、下の歯なら庭から上に向かって。
幼いころはなかなか遠くまで歯を飛ばせなかった娘も、今ではコントロールもよくけっこう遠くまで弧を描けるようになった。
職場の小学校で聞いた話だが、最近は子供の抜けた歯を箱に入れたりして残しておくようで・・・。
「ディズニーランドのチョコの缶に入れてるの」とか「ガチャポンのカプセルにためてる」とか、小学生たちが教えてくれる。
「えっ。自分でためてるの?」というと「ママが引き出しにしまってる」。
もちろん昔ながらに外に投げている子もいたが、そのとき聞いた半数の子たちが「秘密の箱にためてる」という答え。
考えてみれば、子供の歯なんて母からすればきれいでかわいいものなので「記念」にとっておきたい、とも思うだろう。
私もその話を聞いて「あーとっとけばよかったかなあ」と少し後悔した。
でも、引き出しの中の箱を開けるとガチャポンのカプセルに抜けた歯がコロコロ・・・ちょっとブキミかもしれないな。
職場の小学校でプールの授業が始まる。
一学期に小学校に仕事に行くと、避けては通れない水泳指導の補助の仕事。
けっこうこれがユーウツ。
スイミングなどのプールと違って学校のプールは屋外にある。
日差しはあっても水が冷たい、ってことはよくある。
一応、水温や気温などを考慮してプール「可」「不可」は決めているのだが、ギチギチの時間割でくんであるので、「こんな日に?マジかよ?」っていう肌寒い日に入ってしまうこともある。
アメンボや枯れ葉はたいてい浮いているし、いつぞやはトンボやカエルの死体が・・・・。
きょうは低学年のプール授業初日。
今どきの子供たちはたいていスイミングで水慣れしているとはいえ、「生まれて初めて」大きなプールに入る、っていう子だっている。
そういう子たちに配慮して最初から嫌な思いをさせないように、プール嫌いの子を作らないように、ということを前もって打ち合わせてあった。
私の役割はそんな水慣れもしてない子たちをだっこしたりおんぶしたりしてまずプールに入れるということ。
2年生たち、プールに向かって歩きながら、「あーあまた地獄のシャワーだ・・・」。
私「なに?地獄のシャワーって」。
「シャワー。超冷たい水が出る」。
・・・プール前のシャワーのことか。
あれは冷たいんだよな。ささっと通り過ぎればちゃえばいいけど。
プールサイドに並んでまず体操。
その後、順番にシャワーを浴びるのだが・・・2年生から5列にきっちり並ばされて、シャワーヘッドの下に並ぶ。
みんな顔がこわばっている。
「はいっ!いくよっっ!」という先生の掛け声とともに飛び出すシャワー。
勢いよくしぶきを上げて子供たちの脳天を直撃する。
「ひーっ!」「きゃーっっ!」「がーっっ!」などと悲鳴を上げる子供たち。
「声出さない!」「動かない!」などと先生。
さっとシャワーを浴びて移動する、なんてことは許されない雰囲気。
子供たち、10秒ほど歯をくいしばりその超冷たいというシャワーに打たれていた・・・まさに修行僧のよう。
それを見てビビる1年生。
まずいなー・・・「最初から嫌な思いをさせないよう配慮」ったって、すでにプール入る前から嫌がってるじゃんよー・・と思う。
「イヤだーおうちかえるー」と涙ぐむ子まで出る。
「よし。お仕事」と思い、そんな子を抱え込み顔はにこやかに体には力をこめてシャワーに連れ込む。
「ウギャー!」とあばれる1年生とともに私の頭上からもシャワーの洗礼が・・・。
つっ・つめたいっっっっ・・・!
井戸水くらいの冷たさ(体感温度)である。
これぞ「地獄のシャワー」!
私が抱えていた子は鼻水をたらして泣き、一発で「プール嫌い」になったと見た。
水泳指導の導入部からして間違ってるよねえ・・・先生。
一学期に小学校に仕事に行くと、避けては通れない水泳指導の補助の仕事。
けっこうこれがユーウツ。
スイミングなどのプールと違って学校のプールは屋外にある。
日差しはあっても水が冷たい、ってことはよくある。
一応、水温や気温などを考慮してプール「可」「不可」は決めているのだが、ギチギチの時間割でくんであるので、「こんな日に?マジかよ?」っていう肌寒い日に入ってしまうこともある。
アメンボや枯れ葉はたいてい浮いているし、いつぞやはトンボやカエルの死体が・・・・。
きょうは低学年のプール授業初日。
今どきの子供たちはたいていスイミングで水慣れしているとはいえ、「生まれて初めて」大きなプールに入る、っていう子だっている。
そういう子たちに配慮して最初から嫌な思いをさせないように、プール嫌いの子を作らないように、ということを前もって打ち合わせてあった。
私の役割はそんな水慣れもしてない子たちをだっこしたりおんぶしたりしてまずプールに入れるということ。
2年生たち、プールに向かって歩きながら、「あーあまた地獄のシャワーだ・・・」。
私「なに?地獄のシャワーって」。
「シャワー。超冷たい水が出る」。
・・・プール前のシャワーのことか。
あれは冷たいんだよな。ささっと通り過ぎればちゃえばいいけど。
プールサイドに並んでまず体操。
その後、順番にシャワーを浴びるのだが・・・2年生から5列にきっちり並ばされて、シャワーヘッドの下に並ぶ。
みんな顔がこわばっている。
「はいっ!いくよっっ!」という先生の掛け声とともに飛び出すシャワー。
勢いよくしぶきを上げて子供たちの脳天を直撃する。
「ひーっ!」「きゃーっっ!」「がーっっ!」などと悲鳴を上げる子供たち。
「声出さない!」「動かない!」などと先生。
さっとシャワーを浴びて移動する、なんてことは許されない雰囲気。
子供たち、10秒ほど歯をくいしばりその超冷たいというシャワーに打たれていた・・・まさに修行僧のよう。
それを見てビビる1年生。
まずいなー・・・「最初から嫌な思いをさせないよう配慮」ったって、すでにプール入る前から嫌がってるじゃんよー・・と思う。
「イヤだーおうちかえるー」と涙ぐむ子まで出る。
「よし。お仕事」と思い、そんな子を抱え込み顔はにこやかに体には力をこめてシャワーに連れ込む。
「ウギャー!」とあばれる1年生とともに私の頭上からもシャワーの洗礼が・・・。
つっ・つめたいっっっっ・・・!
井戸水くらいの冷たさ(体感温度)である。
これぞ「地獄のシャワー」!
私が抱えていた子は鼻水をたらして泣き、一発で「プール嫌い」になったと見た。
水泳指導の導入部からして間違ってるよねえ・・・先生。
4月から通った訪問介護員講座の通学部分が終了。
あとは実習4日間を残すのみ。
仕事に行きながら、そしてPTA役員もしながら、だったのでとんでもなく忙しい2ヶ月間だった。
講座はとにかく出席すればなんとかなるのだが、テキストを読んで書いたレポートも出さなければいけない。
コドモたちの学校・習い事関係の参観・懇談会・見学もある。
スケジュール表とにらめっこの毎日だった。
主婦仲間とのつきあいはちょっとごめんなさいさせてもらったことも多かったし、映画や本、けっきょく春ドラマも忙しくてほとんど見ないでしまった。
整理しようと出していたアルバムや子供の小さいころのビデオも3月からかわらず積み重ねてある。
時間の過ぎ去るのがこんなに早く感じたこともない。
それでも目標にしていた「夏休み前の資格取得」は達成できそうでうれしい。
よし!やった!という達成感がある。
こんなことがあったので実感としてわかる言葉がある。
「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。
何かを得るためにはそれと同等の代価が必要になる。
それが錬金術における等価交換の原則だ」。
コドモたちに人気のアニメ「鋼の錬金術師」のオープニングで流れる言葉。
この言葉自体はアニメが始まった去年から何度も耳にしていたのだけれど。
たまたま息子の中学の学年通信に先生がこの言葉を引用していたのを見て「その通りだなあ」と思う。
学年通信では、定期テストに向けて「努力した者はそれに見合った成績を修めることができる」といった感じで使っていた。
「楽して何かを得ようとしてもだめだよ。
何かを手に入れようとしたらそれだけ努力しなきゃ」。
そんな感じ。
自分も今回、実感としてこれはよくわかった。
時間とお金と引き換えに資格を手に入れられたので、忙しくて大変だったけどまあ良かった、ということで。
なんだかよくわからなかった介護保険制度のしくみがだいたいわかったことも良かった。
洗髪・清拭(体を拭く)・姿勢交換・移動や車椅子への移乗・衣服着脱・食事の介助・オムツ交換などなどは、実際に実習でやってみたので、今後も家庭内でも介護を必要とするときはやれそう。
親の介護のときも、保険のしくみや介護の技術など知っていればそれだけ役に立つだろう。
講座は、子供の手が離れたオバサンが多いが、まだ高校出たばかりとか70近いおばあちゃんとか、もちろん若い男性も定年退職したオッサンもいる。
一枚着た上からであっても、ぜんぜん知らない人たちと服をぬがせっこしたり、髪の洗いっこしたり、オムツ交換し合ったり、食事の食べさせっこしたり、体全体密着させてベッドから車椅子への移乗などする。
はじめは「いやだなー。やりたくないなー」と思っていた。
次の日に「洗髪実習」なんてあると、「うわー行きたくないなあ」なんて暗い気持ちになったりしたのに、行けば教室全体がけっこう和気あいあいのノリなので、なんだか自然にできてしまうのが不思議。
ぜんぜん知らない人同士だからかえってよかったのかも。
ちょっぴり足を踏み入れた福祉の世界は奥が深く、老人介護ばかりではなく全身障害や視覚障害・知的障害の人々も支援の手を待っているという。
成人の人も子供たちも。
なんだか「自分が世のため人のために役立ちそう」な気持ちにもなってくる。
人手はこれからますます必要になるらしいし。
今までとは違った別の世界を見られそうでうれしい。
あとは実習4日間を残すのみ。
仕事に行きながら、そしてPTA役員もしながら、だったのでとんでもなく忙しい2ヶ月間だった。
講座はとにかく出席すればなんとかなるのだが、テキストを読んで書いたレポートも出さなければいけない。
コドモたちの学校・習い事関係の参観・懇談会・見学もある。
スケジュール表とにらめっこの毎日だった。
主婦仲間とのつきあいはちょっとごめんなさいさせてもらったことも多かったし、映画や本、けっきょく春ドラマも忙しくてほとんど見ないでしまった。
整理しようと出していたアルバムや子供の小さいころのビデオも3月からかわらず積み重ねてある。
時間の過ぎ去るのがこんなに早く感じたこともない。
それでも目標にしていた「夏休み前の資格取得」は達成できそうでうれしい。
よし!やった!という達成感がある。
こんなことがあったので実感としてわかる言葉がある。
「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。
何かを得るためにはそれと同等の代価が必要になる。
それが錬金術における等価交換の原則だ」。
コドモたちに人気のアニメ「鋼の錬金術師」のオープニングで流れる言葉。
この言葉自体はアニメが始まった去年から何度も耳にしていたのだけれど。
たまたま息子の中学の学年通信に先生がこの言葉を引用していたのを見て「その通りだなあ」と思う。
学年通信では、定期テストに向けて「努力した者はそれに見合った成績を修めることができる」といった感じで使っていた。
「楽して何かを得ようとしてもだめだよ。
何かを手に入れようとしたらそれだけ努力しなきゃ」。
そんな感じ。
自分も今回、実感としてこれはよくわかった。
時間とお金と引き換えに資格を手に入れられたので、忙しくて大変だったけどまあ良かった、ということで。
なんだかよくわからなかった介護保険制度のしくみがだいたいわかったことも良かった。
洗髪・清拭(体を拭く)・姿勢交換・移動や車椅子への移乗・衣服着脱・食事の介助・オムツ交換などなどは、実際に実習でやってみたので、今後も家庭内でも介護を必要とするときはやれそう。
親の介護のときも、保険のしくみや介護の技術など知っていればそれだけ役に立つだろう。
講座は、子供の手が離れたオバサンが多いが、まだ高校出たばかりとか70近いおばあちゃんとか、もちろん若い男性も定年退職したオッサンもいる。
一枚着た上からであっても、ぜんぜん知らない人たちと服をぬがせっこしたり、髪の洗いっこしたり、オムツ交換し合ったり、食事の食べさせっこしたり、体全体密着させてベッドから車椅子への移乗などする。
はじめは「いやだなー。やりたくないなー」と思っていた。
次の日に「洗髪実習」なんてあると、「うわー行きたくないなあ」なんて暗い気持ちになったりしたのに、行けば教室全体がけっこう和気あいあいのノリなので、なんだか自然にできてしまうのが不思議。
ぜんぜん知らない人同士だからかえってよかったのかも。
ちょっぴり足を踏み入れた福祉の世界は奥が深く、老人介護ばかりではなく全身障害や視覚障害・知的障害の人々も支援の手を待っているという。
成人の人も子供たちも。
なんだか「自分が世のため人のために役立ちそう」な気持ちにもなってくる。
人手はこれからますます必要になるらしいし。
今までとは違った別の世界を見られそうでうれしい。
この前の日曜日。
用事があって出かけて帰ったらパソがない。
ダンナ、「立ち上がんないから修理に出したから」。
ここのところなかなか一発で立ち上がらないことやいきなり落ちることも多くてヤバいんじゃないかと思っていたが。
ついに。
2日でパソは戻ってきたものの・・・
私のデータはすべて無くなっていた。
パソに依存してるわけではないので、ネットと繋がらなくてもそれほど困るわけではない。
知りたいことがあるときに検索できないのが不便、といったところ。
メールもチャットも掲示板もひととおりハマった時期もあったが、しょせんネットはバーチャルなものであり、ここにエネルギーを割くのは違うだろうと思うし。
パソはテレビと同じく、便利に使っているうちはいいけどいつの間にかこちらが情報に振り回されてしまっている・・という危険と隣り合わせな道具。
主体性を持ってうまく利用しないと流されがちになってしまう。
だからパソとの距離はそこそこでいい。
まあそれはいいとして。
「なんでよ?」と思うのは、ダンナの行動。
パソの調子が悪いのはわかっていたから、見てもらったら?とずっと言っていたのに「金がかかる」とか「なんとか使える」とか「修理に出すのはめんどう」とか・・・その気はまるでなさそうだったのに。
ついに立ち上がらなくなった日曜日、自分のデータだけは別のに移して(詳しくわかりませんが)修理に出した。
それは唐突で私には一言もなく。
お気に入りに入れていたページも、メモ程度だが書いた文章も、メールもとにかくすべてデータはまっさらに。
メールのアドレスだって特別に別のところにメモってるわけではないので、こちらからはもう出せない。
「前もって修理に出すかもってわかってればメモするとかなんとかしたのに・・・」と言うと、
ダンナ「普段からバックアップとっとかないとね」と。
データが消えたことより、そのダンナの行動にがっくりとくる。
自分だって「データがなくなったら困る」と思ったんだから、私だってそうだろう、とは思わなかったんだな。
もし大切なデータやアドレスがあったとしたらどうするんだろうか。
そんなものは最初からダンナの考えにはないのか。
それにしても一言でいいからことわりがほしかったよ。
その一言があるかないかでずいぶん違うんだからさ。
力が抜けるね・・・はあー。
用事があって出かけて帰ったらパソがない。
ダンナ、「立ち上がんないから修理に出したから」。
ここのところなかなか一発で立ち上がらないことやいきなり落ちることも多くてヤバいんじゃないかと思っていたが。
ついに。
2日でパソは戻ってきたものの・・・
私のデータはすべて無くなっていた。
パソに依存してるわけではないので、ネットと繋がらなくてもそれほど困るわけではない。
知りたいことがあるときに検索できないのが不便、といったところ。
メールもチャットも掲示板もひととおりハマった時期もあったが、しょせんネットはバーチャルなものであり、ここにエネルギーを割くのは違うだろうと思うし。
パソはテレビと同じく、便利に使っているうちはいいけどいつの間にかこちらが情報に振り回されてしまっている・・という危険と隣り合わせな道具。
主体性を持ってうまく利用しないと流されがちになってしまう。
だからパソとの距離はそこそこでいい。
まあそれはいいとして。
「なんでよ?」と思うのは、ダンナの行動。
パソの調子が悪いのはわかっていたから、見てもらったら?とずっと言っていたのに「金がかかる」とか「なんとか使える」とか「修理に出すのはめんどう」とか・・・その気はまるでなさそうだったのに。
ついに立ち上がらなくなった日曜日、自分のデータだけは別のに移して(詳しくわかりませんが)修理に出した。
それは唐突で私には一言もなく。
お気に入りに入れていたページも、メモ程度だが書いた文章も、メールもとにかくすべてデータはまっさらに。
メールのアドレスだって特別に別のところにメモってるわけではないので、こちらからはもう出せない。
「前もって修理に出すかもってわかってればメモするとかなんとかしたのに・・・」と言うと、
ダンナ「普段からバックアップとっとかないとね」と。
データが消えたことより、そのダンナの行動にがっくりとくる。
自分だって「データがなくなったら困る」と思ったんだから、私だってそうだろう、とは思わなかったんだな。
もし大切なデータやアドレスがあったとしたらどうするんだろうか。
そんなものは最初からダンナの考えにはないのか。
それにしても一言でいいからことわりがほしかったよ。
その一言があるかないかでずいぶん違うんだからさ。
力が抜けるね・・・はあー。
スーパーの店先に青い梅の実が並ぶ時期になる。
私の中では「梅」と「あじさい」はセットで、あじさいが色づくと「梅酒」の季節。
さまざまな花が咲き乱れる陽気な春からギラギラと照り付ける激しい夏に移りゆく手前の「落ち着き」を感じさせる季節。
あじさいの花は豪華さの中にも可憐さがあり、折り紙細工のような花びらを染める紫のグラディエーションも美しい。
そして生命のエネルギーがぎゅっとつまっているような青梅。
やさしい産毛におおわれたまるい形を手に取ると、自然の造形のすばらしさを思う。
コドモたちも飲める「梅シロップ」は去年も大好評。
夏休み前にはなくなるほどだったので今年は多めにと思いながら台所で青梅を洗っていると、娘も来ていっしょに仕込みを始める。
洗ってへたを取りエキスがよく出るようにつまようじで何箇所か穴をあける。
あれこれしゃべりながら同じ作業をする。
子供たちの受難が続く昨今、今年もあじさいの季節に娘とこの作業ができることに思わず感謝する。
氷砂糖と梅を交互に入れホワイトリカーを投入して完了。
「梅シロップ」はこのあとがおもしろい。
200ミリリットルほどしかホワイトリカーを入れないので初めは底から3センチほどしか液がたまっていないのに・・・砂糖によって梅のエキスは引き出されどんどんシロップが増えていく。
それとともに元気のかたまりのようだったまんまるの青梅は、色もあせ見事なほどのシワシワの梅になっていく。
その変化がおもしろくて梅シロップを仕込む、といってもいいほど。
梅シロップはけっこうすぐ飲めるのだが、梅酒は仕込んでから1年以上過ぎてまろやかな味になるという。
去年の梅酒は床下収納に眠ったまま。
琥珀色、にはまだまだなっていないだろうが少しは丸さを感じる色と味になっているかな、と思って出してみると・・・。
容器に入っているのは梅と申しわけ程度の梅酒ばかり・・・。
入れ物に穴でも開いたのかなと思うがそんな様子もなく。
まさかと思ってダンナに聞くと「ああー。実はちょっとばかりいただいてしまって・・・」とのこと。
何が「ちょっとばかり」か。
ほとんど梅酒は飲まれてしまっていたのだった。
しかも、すでに去年の秋にはなかったという。
秋の夜長、私たちが寝静まったあとに床下収納をあけてちびちびとやっていたんだろうか。
奥さん亡きあと、10年物の梅酒をダンナが物置から見つけて涙しながら飲む・・・なんてドラマにありそうなシーン。
そういうの、よかったんだけどなあ。
残念なことである。
☆梅酒・梅シロップの画像あります。
私の中では「梅」と「あじさい」はセットで、あじさいが色づくと「梅酒」の季節。
さまざまな花が咲き乱れる陽気な春からギラギラと照り付ける激しい夏に移りゆく手前の「落ち着き」を感じさせる季節。
あじさいの花は豪華さの中にも可憐さがあり、折り紙細工のような花びらを染める紫のグラディエーションも美しい。
そして生命のエネルギーがぎゅっとつまっているような青梅。
やさしい産毛におおわれたまるい形を手に取ると、自然の造形のすばらしさを思う。
コドモたちも飲める「梅シロップ」は去年も大好評。
夏休み前にはなくなるほどだったので今年は多めにと思いながら台所で青梅を洗っていると、娘も来ていっしょに仕込みを始める。
洗ってへたを取りエキスがよく出るようにつまようじで何箇所か穴をあける。
あれこれしゃべりながら同じ作業をする。
子供たちの受難が続く昨今、今年もあじさいの季節に娘とこの作業ができることに思わず感謝する。
氷砂糖と梅を交互に入れホワイトリカーを投入して完了。
「梅シロップ」はこのあとがおもしろい。
200ミリリットルほどしかホワイトリカーを入れないので初めは底から3センチほどしか液がたまっていないのに・・・砂糖によって梅のエキスは引き出されどんどんシロップが増えていく。
それとともに元気のかたまりのようだったまんまるの青梅は、色もあせ見事なほどのシワシワの梅になっていく。
その変化がおもしろくて梅シロップを仕込む、といってもいいほど。
梅シロップはけっこうすぐ飲めるのだが、梅酒は仕込んでから1年以上過ぎてまろやかな味になるという。
去年の梅酒は床下収納に眠ったまま。
琥珀色、にはまだまだなっていないだろうが少しは丸さを感じる色と味になっているかな、と思って出してみると・・・。
容器に入っているのは梅と申しわけ程度の梅酒ばかり・・・。
入れ物に穴でも開いたのかなと思うがそんな様子もなく。
まさかと思ってダンナに聞くと「ああー。実はちょっとばかりいただいてしまって・・・」とのこと。
何が「ちょっとばかり」か。
ほとんど梅酒は飲まれてしまっていたのだった。
しかも、すでに去年の秋にはなかったという。
秋の夜長、私たちが寝静まったあとに床下収納をあけてちびちびとやっていたんだろうか。
奥さん亡きあと、10年物の梅酒をダンナが物置から見つけて涙しながら飲む・・・なんてドラマにありそうなシーン。
そういうの、よかったんだけどなあ。
残念なことである。
☆梅酒・梅シロップの画像あります。
「長崎小6女児殺人事件」について。
仲がいい友達をカッターで切り殺す、しかも小学生が、というショッキングな事件。
母としてまず自分のコドモたちの学校やクラスの状況をそれとなくうかがう。
自分のコドモたちが被害者になるかもしれない、そして加害者になるかもしれないということ。
とりあえず「ヤバイときは逃げるんだ」などと忠告し、学校に送り出す。
「学校」という安全であって当たり前の場所で、こんな事件が起きるなんて・・・。
きのうの朝。職場に行くとボスはじめ上の方々は難しい顔をしてその「対応」を話し合っていた。
子供たちにどんな話をするか。家庭にどんなお手紙を出すか。
私はてっきり「全校朝会」(重要度が高い場合はコレ)かと思ったが、各クラスで担任が「命の大切さ」と「刃物などを持つことの危険性」などの話をするということ。
そして各家庭にも、その内容の手紙を配布するということ。
学級で担任が話す・・・というのは、ひとえにその担任の力量に関わってくるわけで。
そしてイマドキの子供たちに「命の大切さ」を話すと言ったって・・・。
さらに「カッターなど必要のないものは持ってこない」と禁止したって・・・。
奥歯にモノがはさまったようなその対応に「なんだか違う」と違和感を覚える。
「命は大切だから、人を殺すことはしてはいけないこと」というような「説明」を聞いて、タテマエではなく「そうだよね。人を殺しちゃいけないね」と心の底から思えるのかどうか。
「こいつムカつく。ブッ殺してやる」とカッとなったときに、「命は大切」という「言葉」で自分を制御できるのかどうか。
さまざまな生活体験から本当に「命は大切。すべての命は一度失ったら戻らない」と実体験していなければ、わかっていてわからないものだろうと思う。
それは、学校側の対応が間違っている、ということではなく。
実際、学校側ができることってこんなもんだろう。
「カッターの持ち込みを禁止する」とか「空き教室の管理を厳重にする」とか「給食前後や清掃時に目を行き届かせる」とかそんなことは場当たり的なものでしかない、ってわかっている先生たちも多い。
でも、具体的に今できる「学校側の対応」としてはこの程度しかないのだろう。
家に帰ってきたコドモたちに聞いてみる。
「学校で、事件のお話、あった?」。
娘「うん。『命を大切に』って。一時間目全部その話だった」。
息子「ラッキーだったじゃん。一時間目つぶれて」。
私「・・・中学は?どんな話だった?」。
息子「んー。まあ。微妙に」。
・・・まともにコミュニケーションがとれそうもない息子はおいといて娘に聞く。
「『命を大切に』ってどう思った?」。
娘「『ふうーーん』って」。
・・娘の担任の先生は、バランス感覚に優れた人格的に魅力がある先生。
きっと一時間、熱く語ったことだろうと思うのだ。
それをもってしても、この娘の反応。
もう少しつっこんで聞いてみたが、「命を大切に」と言われたってやはりコドモたちは実感としてよくわからないとのこと。
きっとうちの子たちだけではないだろう。
私だっていまひとつ「命を大切に」という言葉だけでは、実感としてストンと落ちない。
でも、娘が友達に刺し殺された父親の気持ちは「想像」できる。
おかあさんは数年前に亡くなっていて、兄二人を持つ末っ子だという。
日常の家事などずいぶんよく気が利く子だったという。
おとうさんにとってはどんなに大切な娘だっただろうか・・・。
そして、幼い子供を残して逝ってしまったおかあさんにとってもどんなに気がかりな娘だっただろうか・・・。
おかあさんは、天国でのその早すぎるその再会にどんなにか心を痛めているだろうか・・・。
そして、加害者の女の子のご両親もどんなに心を痛めていることか・・・。
こんな事件が起きるたびに思うのだが、自分の子供が殺人者になるなんてどこの親だって思うはずがない。
そんな話をコドモたちにする。
娘も息子も「うん。わかる。その気持ちは想像できる」。
自分ではない他者の気持ちを推し量る・・・そんな想像力。
今のコドモたちに欠けていること。
そして、人を殺してしまったらどうなるのか。
自分は、家族は、周囲の人は。
家の周囲にはさまざまなメディアの人々が押しかけ、あることないことすべてワイドショーや週刊誌で洗いざらいぶちまけられる。
ネット上でも顔写真や遠い親戚の経歴までもおもしろおかしく流される・・・。
そして自分の中で、人を殺したという記憶は一生消えない・・・。
そんな状況を読む想像力。それも欠けている。
そこまで言って初めて、息子も娘も「うわー。それイヤだ!絶対人なんか殺さない!」。
・・・「命を大切に」。
それは確かにそのとおりだ。
でもそんなお題目を唱えることも大切だろうが、もっと具体的な利害を説明することも必要なんじゃないだろうか。
未来ある子供の命が奪われる。
こんな事件は悲しすぎる。
仲がいい友達をカッターで切り殺す、しかも小学生が、というショッキングな事件。
母としてまず自分のコドモたちの学校やクラスの状況をそれとなくうかがう。
自分のコドモたちが被害者になるかもしれない、そして加害者になるかもしれないということ。
とりあえず「ヤバイときは逃げるんだ」などと忠告し、学校に送り出す。
「学校」という安全であって当たり前の場所で、こんな事件が起きるなんて・・・。
きのうの朝。職場に行くとボスはじめ上の方々は難しい顔をしてその「対応」を話し合っていた。
子供たちにどんな話をするか。家庭にどんなお手紙を出すか。
私はてっきり「全校朝会」(重要度が高い場合はコレ)かと思ったが、各クラスで担任が「命の大切さ」と「刃物などを持つことの危険性」などの話をするということ。
そして各家庭にも、その内容の手紙を配布するということ。
学級で担任が話す・・・というのは、ひとえにその担任の力量に関わってくるわけで。
そしてイマドキの子供たちに「命の大切さ」を話すと言ったって・・・。
さらに「カッターなど必要のないものは持ってこない」と禁止したって・・・。
奥歯にモノがはさまったようなその対応に「なんだか違う」と違和感を覚える。
「命は大切だから、人を殺すことはしてはいけないこと」というような「説明」を聞いて、タテマエではなく「そうだよね。人を殺しちゃいけないね」と心の底から思えるのかどうか。
「こいつムカつく。ブッ殺してやる」とカッとなったときに、「命は大切」という「言葉」で自分を制御できるのかどうか。
さまざまな生活体験から本当に「命は大切。すべての命は一度失ったら戻らない」と実体験していなければ、わかっていてわからないものだろうと思う。
それは、学校側の対応が間違っている、ということではなく。
実際、学校側ができることってこんなもんだろう。
「カッターの持ち込みを禁止する」とか「空き教室の管理を厳重にする」とか「給食前後や清掃時に目を行き届かせる」とかそんなことは場当たり的なものでしかない、ってわかっている先生たちも多い。
でも、具体的に今できる「学校側の対応」としてはこの程度しかないのだろう。
家に帰ってきたコドモたちに聞いてみる。
「学校で、事件のお話、あった?」。
娘「うん。『命を大切に』って。一時間目全部その話だった」。
息子「ラッキーだったじゃん。一時間目つぶれて」。
私「・・・中学は?どんな話だった?」。
息子「んー。まあ。微妙に」。
・・・まともにコミュニケーションがとれそうもない息子はおいといて娘に聞く。
「『命を大切に』ってどう思った?」。
娘「『ふうーーん』って」。
・・娘の担任の先生は、バランス感覚に優れた人格的に魅力がある先生。
きっと一時間、熱く語ったことだろうと思うのだ。
それをもってしても、この娘の反応。
もう少しつっこんで聞いてみたが、「命を大切に」と言われたってやはりコドモたちは実感としてよくわからないとのこと。
きっとうちの子たちだけではないだろう。
私だっていまひとつ「命を大切に」という言葉だけでは、実感としてストンと落ちない。
でも、娘が友達に刺し殺された父親の気持ちは「想像」できる。
おかあさんは数年前に亡くなっていて、兄二人を持つ末っ子だという。
日常の家事などずいぶんよく気が利く子だったという。
おとうさんにとってはどんなに大切な娘だっただろうか・・・。
そして、幼い子供を残して逝ってしまったおかあさんにとってもどんなに気がかりな娘だっただろうか・・・。
おかあさんは、天国でのその早すぎるその再会にどんなにか心を痛めているだろうか・・・。
そして、加害者の女の子のご両親もどんなに心を痛めていることか・・・。
こんな事件が起きるたびに思うのだが、自分の子供が殺人者になるなんてどこの親だって思うはずがない。
そんな話をコドモたちにする。
娘も息子も「うん。わかる。その気持ちは想像できる」。
自分ではない他者の気持ちを推し量る・・・そんな想像力。
今のコドモたちに欠けていること。
そして、人を殺してしまったらどうなるのか。
自分は、家族は、周囲の人は。
家の周囲にはさまざまなメディアの人々が押しかけ、あることないことすべてワイドショーや週刊誌で洗いざらいぶちまけられる。
ネット上でも顔写真や遠い親戚の経歴までもおもしろおかしく流される・・・。
そして自分の中で、人を殺したという記憶は一生消えない・・・。
そんな状況を読む想像力。それも欠けている。
そこまで言って初めて、息子も娘も「うわー。それイヤだ!絶対人なんか殺さない!」。
・・・「命を大切に」。
それは確かにそのとおりだ。
でもそんなお題目を唱えることも大切だろうが、もっと具体的な利害を説明することも必要なんじゃないだろうか。
未来ある子供の命が奪われる。
こんな事件は悲しすぎる。
目上の人に「お疲れさま」ということについて。
みなさまからもいろいろとご意見聞かせていただきありがとうございます。
やはり、私と同じく目上の人にも「お疲れさま」を使っている方が多く「あっ自分だけじゃなかったー・・」と、まず安心。
もしかして、自分だけが間違った言い方(しかも失礼な)をしていたか、と心配だったので。
バズさま、ひつじのポーさま、浜乙女さま、裕⇔ユタカさま、ありすさま、麦茶さま、砂姫さま、おかんさま、丸信材木店店主さま、びっきぃさま、たこすけさま、shikoさま、ポピーさま、ありがとうございました。
先週から少し意識して周囲の人々の言葉を観察してみたところ、目上、目下に関係なく「お疲れさま」が一般的に使われているよう。
あーよかった・・・。
丸信材木店店主さまより。
「『お疲れさま』は、本来『ご苦労さま』と同じで目下のものをねぎらう言葉。本来『ねぎらい』の言葉というのは、『立場的に下の者が上に使ってはいけない』という前提があったりします。
言葉というのは時代と共に変わっていきます。
だから、そんな小難しい事言わないで、目上に対しても『お疲れ様』でいいんじゃないですかね?」。
砂姫さまが見つけてくれたページより。
日本語の待遇表現・Q8「ご苦労さまです」「お疲れさまです」
の使いわけ→http://nhg.pro.tok2.com/qa/keigo-1.htm
これによると、「『ご苦労さま』は、自分より立場が低い人に対するねぎらいの言葉。
会社での上司などには言わないと思いますが、最近はそうでもないかもしれません。言葉というものは変わりますから。
でも、無意識に『ご苦労さまです』と言ってしまって、相手が気分を害している場合もあるでしょうから、気をつけた方がいいですね。
『お疲れさまです』は、会社の上司、同僚に使っても失礼にはなりません」。
お疲れ様とあいさつする対象→http://nhg.pro.tok2.com/reserch/reserch1-9.htm
これによると、「『お疲れ様でした』は、慣用句的に(上司、後輩 関係なく) 使用する場合が多く、目上の人に対しても8割以上の人が『お疲れさま』と使っている」。
浜乙女さまより。
「大事なことはその文字の羅列にどういう気持ちを込めて発するか?ということになるのではないか?」。
・・・確かにそのとおりです。
実際「お疲れさま」という言葉には、「ねぎらい」というとえらそうだけど「大変でしたね」といういたわりの気持ちをこめて、私は使う。みなさんそうだろう。
だったらそれでいいじゃない?とは思うのだが、やっぱり識者に新聞紙上で「お疲れさまは失礼な言葉」と指摘されると、「えええー?」と思ってしまうのだ。
・・・でも、「お疲れさま」でよかったみたい。
あれ以来なんだかケチがついた言葉みたいに、ちょっと口ごもってしまったりもするけれど。
みなさまからもいろいろとご意見聞かせていただきありがとうございます。
やはり、私と同じく目上の人にも「お疲れさま」を使っている方が多く「あっ自分だけじゃなかったー・・」と、まず安心。
もしかして、自分だけが間違った言い方(しかも失礼な)をしていたか、と心配だったので。
バズさま、ひつじのポーさま、浜乙女さま、裕⇔ユタカさま、ありすさま、麦茶さま、砂姫さま、おかんさま、丸信材木店店主さま、びっきぃさま、たこすけさま、shikoさま、ポピーさま、ありがとうございました。
先週から少し意識して周囲の人々の言葉を観察してみたところ、目上、目下に関係なく「お疲れさま」が一般的に使われているよう。
あーよかった・・・。
丸信材木店店主さまより。
「『お疲れさま』は、本来『ご苦労さま』と同じで目下のものをねぎらう言葉。本来『ねぎらい』の言葉というのは、『立場的に下の者が上に使ってはいけない』という前提があったりします。
言葉というのは時代と共に変わっていきます。
だから、そんな小難しい事言わないで、目上に対しても『お疲れ様』でいいんじゃないですかね?」。
砂姫さまが見つけてくれたページより。
日本語の待遇表現・Q8「ご苦労さまです」「お疲れさまです」
の使いわけ→http://nhg.pro.tok2.com/qa/keigo-1.htm
これによると、「『ご苦労さま』は、自分より立場が低い人に対するねぎらいの言葉。
会社での上司などには言わないと思いますが、最近はそうでもないかもしれません。言葉というものは変わりますから。
でも、無意識に『ご苦労さまです』と言ってしまって、相手が気分を害している場合もあるでしょうから、気をつけた方がいいですね。
『お疲れさまです』は、会社の上司、同僚に使っても失礼にはなりません」。
お疲れ様とあいさつする対象→http://nhg.pro.tok2.com/reserch/reserch1-9.htm
これによると、「『お疲れ様でした』は、慣用句的に(上司、後輩 関係なく) 使用する場合が多く、目上の人に対しても8割以上の人が『お疲れさま』と使っている」。
浜乙女さまより。
「大事なことはその文字の羅列にどういう気持ちを込めて発するか?ということになるのではないか?」。
・・・確かにそのとおりです。
実際「お疲れさま」という言葉には、「ねぎらい」というとえらそうだけど「大変でしたね」といういたわりの気持ちをこめて、私は使う。みなさんそうだろう。
だったらそれでいいじゃない?とは思うのだが、やっぱり識者に新聞紙上で「お疲れさまは失礼な言葉」と指摘されると、「えええー?」と思ってしまうのだ。
・・・でも、「お疲れさま」でよかったみたい。
あれ以来なんだかケチがついた言葉みたいに、ちょっと口ごもってしまったりもするけれど。
「この天気もきょう限り」というこれ以上ないほどの五月晴れのもと、娘の小学校の運動会がある。
出遅れたっ!と思いながらも娘の出番に合わせてタラタラと自転車をこいでいくと・・・。
遠くからでも聞こえるものすごい歓声。
校庭いっぱいに人があふれていてなにがなんだかわからない。
いつにもましてお父様たちの姿が多い。
人を押しのけての大撮影大会といった感じ。
低学年のお母様たちなどさすがに若くて細くて・・もう私らの時代(?)ではないなあ、などと思う。
紅白帽の軍団である子供たちの中で一体どこにわが子がいるのか・・・。
ド派手な色のハイソックスも今年は用意するのをすっかり忘れていて、目印もなくなかなか探せない。
市内でも一二を争うマンモス校なのでもうとにかく人が多すぎるのだ。
息子の中学も私の職場の学校もこぢんまりしていて、人垣なんてできるほど人数はいないので、ひさしぶりに娘の小学校の運動会などに行くとまずその人の多さに圧倒される。
徒競走は流れ作業みたいで何がなんだかわからないうちに終了してしまう。
踊りもやたら隊形移動があってわやわやしているうちに娘の姿を見失ってしまう。
あちこち歩けばいろんな人に会うので、そのたびに一言二言かわしていると競技なんて見てるゆとりもなく。
ううー・・・。
ビデオはざっと撮ったが写真の一枚も撮れず。
主婦仲間との流れでお昼を食べに行ったらそこで根が生え、運動会恒例の応援合戦も見逃してしまった。
大人数なのでなかなか毎年見ごたえがあるのだが。
そういえば運動会の歌「ゴーゴーゴー」も今回は聞いてないなあ。
きょう私は何をしに運動会に行ったか・・・。
んー・・・。
主婦仲間たちも小学校に残っているのは二人目の子だったり三人目の子だったり、なのでまるっきり力が抜けてるのがよくわかる。
うちなどは特にこんなマンモス校では「その他大勢」の部類に入るような子だが、それなりに息子のときは気合が入ったもんだったが・・・。
娘、5年生の二大行事である「宿泊学習」も「運動会」もこれにて終了。
あとは大きな行事もない。
先生たちはさぞほっとしているだろう。
高学年になっていろんな仕事や役割をしなければいけなくなった5年生。
娘もその友達たちも去年にくらべてすっかりおねえさんの顔になっている。
すらりと伸びた手足はこの時期の少女独特のもので、同じ学年の男の子が幼く見える。
まぶしい日差しでしっかりと土方焼けした娘であった。
出遅れたっ!と思いながらも娘の出番に合わせてタラタラと自転車をこいでいくと・・・。
遠くからでも聞こえるものすごい歓声。
校庭いっぱいに人があふれていてなにがなんだかわからない。
いつにもましてお父様たちの姿が多い。
人を押しのけての大撮影大会といった感じ。
低学年のお母様たちなどさすがに若くて細くて・・もう私らの時代(?)ではないなあ、などと思う。
紅白帽の軍団である子供たちの中で一体どこにわが子がいるのか・・・。
ド派手な色のハイソックスも今年は用意するのをすっかり忘れていて、目印もなくなかなか探せない。
市内でも一二を争うマンモス校なのでもうとにかく人が多すぎるのだ。
息子の中学も私の職場の学校もこぢんまりしていて、人垣なんてできるほど人数はいないので、ひさしぶりに娘の小学校の運動会などに行くとまずその人の多さに圧倒される。
徒競走は流れ作業みたいで何がなんだかわからないうちに終了してしまう。
踊りもやたら隊形移動があってわやわやしているうちに娘の姿を見失ってしまう。
あちこち歩けばいろんな人に会うので、そのたびに一言二言かわしていると競技なんて見てるゆとりもなく。
ううー・・・。
ビデオはざっと撮ったが写真の一枚も撮れず。
主婦仲間との流れでお昼を食べに行ったらそこで根が生え、運動会恒例の応援合戦も見逃してしまった。
大人数なのでなかなか毎年見ごたえがあるのだが。
そういえば運動会の歌「ゴーゴーゴー」も今回は聞いてないなあ。
きょう私は何をしに運動会に行ったか・・・。
んー・・・。
主婦仲間たちも小学校に残っているのは二人目の子だったり三人目の子だったり、なのでまるっきり力が抜けてるのがよくわかる。
うちなどは特にこんなマンモス校では「その他大勢」の部類に入るような子だが、それなりに息子のときは気合が入ったもんだったが・・・。
娘、5年生の二大行事である「宿泊学習」も「運動会」もこれにて終了。
あとは大きな行事もない。
先生たちはさぞほっとしているだろう。
高学年になっていろんな仕事や役割をしなければいけなくなった5年生。
娘もその友達たちも去年にくらべてすっかりおねえさんの顔になっている。
すらりと伸びた手足はこの時期の少女独特のもので、同じ学年の男の子が幼く見える。
まぶしい日差しでしっかりと土方焼けした娘であった。
イラク日本人襲撃事件で、フリージャーナリスト橋田信介さんとそのおいの小川功太郎さんが亡くなった。
ニュースで橋田信介さんの名前を聞いたとき「ああ、ついに・・・」と思う。
その著書「イラクの中心でバカとさけぶ」を読んだときから、いつか近いうちにこういう日がくるのではと思っていた。
平和ボケした私の頭をガツン!とやってくれたこの本は、とても印象に残っている。
現場にいる者でしか書けない内容をさらりと書いている・・そのことにも感銘を受けた。
「危険な場所だからこそ行くのが我々の仕事」と、覚悟は決めてあるその潔さにも感心した。
橋田さんの今回のイラク入りの目的は、爆撃によって目を負傷した現地の少年を静岡の病院で手術を受けさせるよう迎えにいくためだったという。
残念である。
☆「イラクの中心でバカとさけぶ」→http://diarynote.jp/d/34236/_225.html
ニュースで橋田信介さんの名前を聞いたとき「ああ、ついに・・・」と思う。
その著書「イラクの中心でバカとさけぶ」を読んだときから、いつか近いうちにこういう日がくるのではと思っていた。
平和ボケした私の頭をガツン!とやってくれたこの本は、とても印象に残っている。
現場にいる者でしか書けない内容をさらりと書いている・・そのことにも感銘を受けた。
「危険な場所だからこそ行くのが我々の仕事」と、覚悟は決めてあるその潔さにも感心した。
橋田さんの今回のイラク入りの目的は、爆撃によって目を負傷した現地の少年を静岡の病院で手術を受けさせるよう迎えにいくためだったという。
残念である。
☆「イラクの中心でバカとさけぶ」→http://diarynote.jp/d/34236/_225.html
何日か前のこと。
さわやかな天気のもと2年生たちと「町探検」に行く。
小学校低学年の担当になると、生活科や遠足の引率補助があり、そんなときはラッキーと思う。
低学年の生活科では、「町を探検して新しい発見をする」「電車・バスなどの乗り物に自分たちで乗ってみる」「公園を探索して季節を感じる」「博物館を見学して昔のおもちゃ・道具などを使う体験をする」などなどがある。
外に出るのは楽しいし、子供たちと一緒に行くと普段自分が大人の目で見慣れたいろいろなことに、またあらたな発見ができるのでおもしろい。
閑静な住宅街を歩く。
今を盛りと咲く真っ赤なバラや色づいたあじさい、手入れされた庭木が美しい。
さすがに通学路だけあって、小学生たちはどこの家に犬がいるとかどこの路地に猫がいるとか知っていて、「せんせ、あそこにクマみたいな犬がいるんだよ」と教えてくれたりする。
キウイ棚を手入れしているおばさんに会う。
キウイの花はうすい黄色でナスタチウムのよう。
小学生たちが元気に「こんにちはー!」と声をかけるので、おばさんも笑顔。
梅の木を手入れしているおじいさんにも会う。
木にはたわわに梅の実がなっている。
シソも畑に植えられていて、「小さいものは梅干に、こちらは梅酒に」と説明してくれる。
ロープを張っていたので、何のためか聞くと盗難防止のためとのこと。
梅の実泥棒が毎年出るそうだ。
「私たちもね、こんなにあるんだから何個か持っていくのは別に見て見ぬふりをするんだけど、ごっそり持っていく人がいるから・・・なんだか悲しいね」と。
今はもう使っていないお風呂屋さんの古びた煙突。
発泡スチロールに植えられた植木。かめの中の水草とメダカ。
工事現場。アリたちの行列。
子供の目線から見ればすべてが発見。
桜並木からぶらさがって宙に浮いているように見える毛虫さえも五月のさわやかな風をうけてキラキラとみずみずしく見えるから不思議。
普段は「どうでもいいこと」として目に入っていても見ていないこと・・・「こんなもん」と勝手に判断して良く見ていないこと・・・。
そんな「オトナの常識」というフィルターを取り払って世界を眺めると、世の中はこんなにいろいろな発見があるんだなあ・・・とあらためてコドモたちのクリアな目線に驚く。
私だってそして世の大人たちだって、きっと子供のころはいろんなことに素直に感動するピュアな感性を持っていたはずなのに。
樹齢400年で切り倒されたばかりのケヤキの切り株を見る。
「あっ。この樹の中にはね、妖精がいてこの樹を守っていたんだから、きっと樹をもらっていったらしあわせになれるよ」とひとりの子が言う。
「じゃ、もらっていこう!」何人かの子が少しずつ切り株の端っこをもらっていく。
それはまだしっとりとしていて森の匂いのする樹の切れ端。
んー、メルヘンだなあ。
うちのコドモたちはもうそんなメルヘンの世界の住人ではなくなったので、なんだかこんな光景ってほほえましい。
私もすっかりその気で妖精さんが宿る樹の切れ端をポケットに入れたはずだったが・・・。
けさ見たら、洗濯物として干されていたジャージのポケットから出てきたそれはカラカラにかわいて、妖精さんもどこかへ行ってしまった模様。
そういえば、子供たちは探検から戻ってきたらすぐその切れ端をビニール袋などに入れて大切にしまっていたっけ。
私は・・・すぐ日常に戻りピュアな感性はどこへやら。
オトナってこんなもん。
しあわせを運ぶ妖精さんもあきれて飛んでいったようであった。
さわやかな天気のもと2年生たちと「町探検」に行く。
小学校低学年の担当になると、生活科や遠足の引率補助があり、そんなときはラッキーと思う。
低学年の生活科では、「町を探検して新しい発見をする」「電車・バスなどの乗り物に自分たちで乗ってみる」「公園を探索して季節を感じる」「博物館を見学して昔のおもちゃ・道具などを使う体験をする」などなどがある。
外に出るのは楽しいし、子供たちと一緒に行くと普段自分が大人の目で見慣れたいろいろなことに、またあらたな発見ができるのでおもしろい。
閑静な住宅街を歩く。
今を盛りと咲く真っ赤なバラや色づいたあじさい、手入れされた庭木が美しい。
さすがに通学路だけあって、小学生たちはどこの家に犬がいるとかどこの路地に猫がいるとか知っていて、「せんせ、あそこにクマみたいな犬がいるんだよ」と教えてくれたりする。
キウイ棚を手入れしているおばさんに会う。
キウイの花はうすい黄色でナスタチウムのよう。
小学生たちが元気に「こんにちはー!」と声をかけるので、おばさんも笑顔。
梅の木を手入れしているおじいさんにも会う。
木にはたわわに梅の実がなっている。
シソも畑に植えられていて、「小さいものは梅干に、こちらは梅酒に」と説明してくれる。
ロープを張っていたので、何のためか聞くと盗難防止のためとのこと。
梅の実泥棒が毎年出るそうだ。
「私たちもね、こんなにあるんだから何個か持っていくのは別に見て見ぬふりをするんだけど、ごっそり持っていく人がいるから・・・なんだか悲しいね」と。
今はもう使っていないお風呂屋さんの古びた煙突。
発泡スチロールに植えられた植木。かめの中の水草とメダカ。
工事現場。アリたちの行列。
子供の目線から見ればすべてが発見。
桜並木からぶらさがって宙に浮いているように見える毛虫さえも五月のさわやかな風をうけてキラキラとみずみずしく見えるから不思議。
普段は「どうでもいいこと」として目に入っていても見ていないこと・・・「こんなもん」と勝手に判断して良く見ていないこと・・・。
そんな「オトナの常識」というフィルターを取り払って世界を眺めると、世の中はこんなにいろいろな発見があるんだなあ・・・とあらためてコドモたちのクリアな目線に驚く。
私だってそして世の大人たちだって、きっと子供のころはいろんなことに素直に感動するピュアな感性を持っていたはずなのに。
樹齢400年で切り倒されたばかりのケヤキの切り株を見る。
「あっ。この樹の中にはね、妖精がいてこの樹を守っていたんだから、きっと樹をもらっていったらしあわせになれるよ」とひとりの子が言う。
「じゃ、もらっていこう!」何人かの子が少しずつ切り株の端っこをもらっていく。
それはまだしっとりとしていて森の匂いのする樹の切れ端。
んー、メルヘンだなあ。
うちのコドモたちはもうそんなメルヘンの世界の住人ではなくなったので、なんだかこんな光景ってほほえましい。
私もすっかりその気で妖精さんが宿る樹の切れ端をポケットに入れたはずだったが・・・。
けさ見たら、洗濯物として干されていたジャージのポケットから出てきたそれはカラカラにかわいて、妖精さんもどこかへ行ってしまった模様。
そういえば、子供たちは探検から戻ってきたらすぐその切れ端をビニール袋などに入れて大切にしまっていたっけ。
私は・・・すぐ日常に戻りピュアな感性はどこへやら。
オトナってこんなもん。
しあわせを運ぶ妖精さんもあきれて飛んでいったようであった。
「お疲れさま」という言葉は
2004年5月25日 日常新聞を読んでいて青ざめた。
漫画なら私の顔にはおでこから縦線が引かれ汗などたらしていることだろう。
以下、作家であり翻訳家の川村二郎氏のコラムより。
タイトルは「言葉遣い 普段から注意を」。
「若い人が挨拶がわりに使う言葉に、『お疲れさま』というのがある。
これは『ご苦労さま』と同じで、目下の者をねぎらう言葉である。
目上の人に向かって言えば、礼を失することになる。
相手が気難しい人だったり、ムシのいどころが悪かったりすれば、『この人は僕がきょう一日、何をしたのか知っていて言っているのだろうか』と、不快に思うかもしれない。
もし、相手が言葉を大切にする作家のような人であれば、『言葉に無神経なこういう人とはつきあいたくないな』と思われてもしかたがない」。
ひえー・・・・。
川村二郎氏は、文章の書き方として「説明するな。描写せよ」と「炎の作文塾」で書いていてかなり影響を受けた。
「『かなしい、楽しい』という言葉を使うな。読んでいる人が『これはさぞ悲しいだろうな』『これは楽しそうだな』と思えるように書け」とか、「私、私、と使うな」とか、文章を書くときに心がけるべきヒントを言っているのでためになる。
だからこそ、川村氏が「『お疲れさま』をいう人は言葉に無神経な人」と書いていることが、ズズーンときたのである。
20年前、社会に出たときに「『お疲れさま』は目上の人に。『ご苦労さま』は同等か目下の人に」と何かで読み、ずーーっとそう思ってきた。
だから、「ご苦労さま」は言うのも言われるのも抵抗がある。
自分で使っているのは「お疲れさま」。
「お疲れさまです」「お疲れさまでした」。
職場で帰り支度をしているときや同僚へ話を切り出すとき、うちあわせのときなど、とにかく仕事関係では便利に使う言葉だ。
PTA関係でも使うし、宅配便や郵便の方々、お世話になっている方々・・・考えてみればよく使っている。
「お疲れさま」が使えない、となるとそれに変わる言葉は見つからない。
それは相手へのねぎらいの気持ちをこめて使う言葉。
私にとっては決して目下の人に使うような言葉ではないのだけど・・・。
もしかしたら、私の社会での空白期間のうちに言葉の価値が変動していたのだろうか。
もしかしたら、私は今まで自分の思い込みにより「礼を失した」言葉を使い続けていたのだろうか。
いやーそんなはずないなあ・・・と職場でのみなさんの言葉などを思い出したりしているが、やっぱり不安。
はたしてどうなんだろう。
漫画なら私の顔にはおでこから縦線が引かれ汗などたらしていることだろう。
以下、作家であり翻訳家の川村二郎氏のコラムより。
タイトルは「言葉遣い 普段から注意を」。
「若い人が挨拶がわりに使う言葉に、『お疲れさま』というのがある。
これは『ご苦労さま』と同じで、目下の者をねぎらう言葉である。
目上の人に向かって言えば、礼を失することになる。
相手が気難しい人だったり、ムシのいどころが悪かったりすれば、『この人は僕がきょう一日、何をしたのか知っていて言っているのだろうか』と、不快に思うかもしれない。
もし、相手が言葉を大切にする作家のような人であれば、『言葉に無神経なこういう人とはつきあいたくないな』と思われてもしかたがない」。
ひえー・・・・。
川村二郎氏は、文章の書き方として「説明するな。描写せよ」と「炎の作文塾」で書いていてかなり影響を受けた。
「『かなしい、楽しい』という言葉を使うな。読んでいる人が『これはさぞ悲しいだろうな』『これは楽しそうだな』と思えるように書け」とか、「私、私、と使うな」とか、文章を書くときに心がけるべきヒントを言っているのでためになる。
だからこそ、川村氏が「『お疲れさま』をいう人は言葉に無神経な人」と書いていることが、ズズーンときたのである。
20年前、社会に出たときに「『お疲れさま』は目上の人に。『ご苦労さま』は同等か目下の人に」と何かで読み、ずーーっとそう思ってきた。
だから、「ご苦労さま」は言うのも言われるのも抵抗がある。
自分で使っているのは「お疲れさま」。
「お疲れさまです」「お疲れさまでした」。
職場で帰り支度をしているときや同僚へ話を切り出すとき、うちあわせのときなど、とにかく仕事関係では便利に使う言葉だ。
PTA関係でも使うし、宅配便や郵便の方々、お世話になっている方々・・・考えてみればよく使っている。
「お疲れさま」が使えない、となるとそれに変わる言葉は見つからない。
それは相手へのねぎらいの気持ちをこめて使う言葉。
私にとっては決して目下の人に使うような言葉ではないのだけど・・・。
もしかしたら、私の社会での空白期間のうちに言葉の価値が変動していたのだろうか。
もしかしたら、私は今まで自分の思い込みにより「礼を失した」言葉を使い続けていたのだろうか。
いやーそんなはずないなあ・・・と職場でのみなさんの言葉などを思い出したりしているが、やっぱり不安。
はたしてどうなんだろう。